第五十六話『ブーリン・フロートの史記』
誰かを傷つけるやつは許せない。
不幸を撒き散らすような人間は、この世からいない方が世界の幸福度は上がる。
それが、ブーリン・フロートの信念だった。
ブーリン・フロートは『流国』のレックという町に生を受ける。
それと同時に、両親に捨てられた。理由はたぶん、子供が欲しくなかったからだ。
同じように、妹——フィア・フロートも捨てられる。年齢は同じだが双子というわけではない。
父は同時に二人の女性を孕ませた。片方が獣系の亜人のハーフで、もう片方が爬虫系の亜人のハーフだった。
そのせいでフィアは生まれつき犬歯が長く、ブーリンは瞳孔が線を描いている。
『流国』は一際、亜人差別が激しい国だったので、ブーリンもフィアも亜人的特徴を隠すようになった。
ブーリンは人と目が合わせなくなり、フィアは笑うことをやめた。
それは両親からもたらされた不幸だ。
亜人と交わった父が悪い。産み落とした母が悪い。
きっと両親は、ブーリンやフィアのような不幸な子供をまだまだ量産するつもりだろう。
つまり、不幸を撒き散らしている。不幸の生産者だ。
だったら殺さなくてはならない。
——それこそが、ブーリンの信念の萌芽だった。
齢三歳のことだった。
ちなみにブーリンとフィアが死なずに成長できたのは理由がある。
捨てられた場所が幸運だったのだ。
基本的に嬰児は山に捨てられるが、『流国』は平坦な地形が広がり、半分が砂漠化している。
そのため、山まで行くとなると一苦労なのだ。
だから、ブーリンたちは近所の得体の知れない図書館を経営しているお爺さん——ヴィクム・トレンチのところへ捨てられた。
もちろん、両親とヴィクムに面識はない。なので、ただヴィクムが親切だっただけである。
彼は幸福を与える人間だ。ブーリンが唯一尊敬できる人だった。
フィアもヴィクムの前では笑うことができ、ブーリンも彼とは目を合わせられる。
彼は亜人の血が混ざっているからといって差別するようなことはなかった。
理由は、結局聞けずじまいだ。
——十二歳の頃、ヴィクムが罪人として処刑されたから。
罪状は違法書物の所持。
タイトルは——『天つ国物語』。
たかがそんな本一冊で国が敵に回るなど馬鹿げている。
しかも、その本が誰を不幸にしたわけでもないようだ。
ならばヴィクムの処刑に何の意味もない。ただの理不尽だ。
何もかもが許せなかった。
ヴィクムの家にいたからといってブーリンを尋問したこともそうだ。
『流国』の『旱魃隊』は残忍にも、ブーリンを虐げた。きっと亜人の血が混ざってることもあって必要以上に痛めつけられた。
でも、それはよかった。痛みはいずれ引いていくし、傷はいずれ治る。
だけど、痛みや傷は常に可視化されるわけではない。
「————」
食事が運ばれるタイミングで、ブーリンは檻から抜け出した。フィアとは離れ離れにされていたが、腹は違えど妹だから位置は分かった。
フィアの手枷を石で強引に外して、手を引いて林の中を走り抜ける。
膝の薄汚れたフィアは、虚ろな目をしていた。
「————」
林の中に使われていない小屋を見つけた。鍵がかかっていたので窓を壊して侵入した。
フィアは一言も喋らない。
——きっともう戻らない。
そう思いながら、その日は共に眠った。
「————」
翌朝、奇妙な音が耳を打って目を覚ます。ギシギシと何かが軋むような音だ。
顔を上げて視界に入ったのはフィアの姿だった。
——ロープに首をかけて、もがき苦しんでいる姿。
鈍いためらいの後、ブーリンはフィアをロープから解放した。吐き出しそうなほど喉を鳴らして呼吸をするフィアが、もたれかかってくる。
何か声をかけようとして、ブーリンはそれを止めた。
足音。
小屋に近づいてくる音を耳に入れて、ブーリンはフィアを抱えて咄嗟に寝台の下に隠れる。
痙攣や動悸の収縮の狭間で、自呆に陥っているフィアがいるため隠れたところで無駄だということはわかっていた。
「————」
小屋に人が入ってくる。足音的に二人いるようだ。
片方の歩き方には聞き覚えがあったから、きっと『旱魃隊』が入ってきた。
何かボソボソと話している。
「逃げ………た…ここ………な」
「確……な」
上手く聞き取れなかったが、彼らはなにか確信めいた口ぶり話しているようだった。
確信とは、フロート兄妹の居所。
しかし——、
「ま……悲深く、……は見……てやるか」
「………情………いたか?」
「…じゃなく…礼……。…しぶりによかった」
「旱魃隊の……は…ひでりって…」
「違……い」
なにか冗談を言い合って笑っていた。その内容は分からなかったが、しかし、最後の言葉だけは明瞭に聞き取れた。
「だから、…だけは…わない。——命があるのが一番なんだからな」
その瞬間、脳が真っ赤に染め上がる。
怒りだ、憤怒だ、憤懣だ。
あいつらは自らの加害性を自覚していない。現にフィアは、自ら命を断とうとしたではないか。
剣を突き立てる以外の加害を知らない、想像力の欠如したゴミども。
怒りが——怒りが収まらなかった。
「————」
父親や母親と同じ、不幸の生産者。無自覚な加害者。そいつらに教えてやりたかった。——自分が殺したものについて。
「————」
二人の『旱魃隊』が出て行った後、ブーリンはすぐさま寝台から這い出て、フィアを吊るしていたロープを手に取った。
——そしてそれを、フィアの首にかける。
「ぉ兄ぃ」
そのか弱い声を無視して、ブーリンはロープをフィアの首にかけたまま引き摺る。
後ろで泣き喚くように、あるいは歓ぶようにフィアがもがき苦しんでいた。
そのまま、ブーリンは小屋の外に出て『旱魃隊』を追いかける。
元々弱っていたのもあり、小屋を出た時にはすでにフィアは絶命していた。
「————」
開くはずのない扉が開いて、『旱魃隊』の二人がブーリンの方を見る。
その視線の先にロープで縊られたフィアを提供して、
「お前らが、殺した」
涙を流しながら狂言を垂れ流すブーリンに『旱魃隊』の二人が尻込みした。
隙を見せるなど愚かにも程がある。
まず左の奴にロープをかけて背後に回る。臀部に足裏をつけながら、ロープを思い切り引っ張ると簡単に頸椎が壊れた。
呆然としている右側の奴も同じ目に合わせてやった。
無自覚な加害者を消した。消し去った。
それを誇示するようにフィアの死体に振り返って——吐き気が込み上げてくる。
フィアを殺した。
僕が。
「違う」
殺したのは無自覚な加害者で、断じてブーリンではない。
だから。だからだからだからだから——。
「ン」
込み上げる胃液を飲み下す。逆流、嚥下、逆流、嚥下、逆流、嚥下。飲んで飲んで、下し続けて、
「僕ンは間違ってない」
——ブーリン・フロートは己が使命を果たすため、怪物になった。
◯
まずヴィクムやフィアの死に関わった『旱魃隊』を一掃するところから始めた。
ロープを振り回しながら、ブーリンは林を闊歩する。
『旱魃隊』については詳しくないが、どうせさっきの二人のようなレベルのやつばっかりの集団だろう。
それでも百人や二百人でやってこられたら困るが、十数人程度なら対処できる。
亜人の血が混ざっているのもあって生まれつき身体能力が高いのも幸いした。それで両親への感謝が芽生えるわけではないが。
むしろ、両親もブーリンが殺害しなければならないリストに入っている。
どこかの街に行方をくらませたが、もしかしたら、『旱魃隊』が調査して特定しているかもしれない。それを、ブーリンとのつながりとして用いるために。
その目論見は全くの見当違いだけれど、可能性はあるので、殺害の前に尋問が必要だった。
尋問。
全部あっちが最初にやってきたことだ。あっちが最初にブーリンを傷つけた。
——だから、こちらからも傷つけさせてもらう。
「————」
異様な空気が漂っていた。あるいは、自分が漂わせていたのかも知れない。
しかし、それがすぐに間違いだったと気づく。
「————」
乾いた風が吹く。この辺りもいずれ砂漠が支配するのだろうと感じさせる。
その風の中心地に——おそらく人が立っていた。
『旱魃隊』の一人。そう思い、ロープを握り直す。
「————」
突如、乾いた風に溶け込んだみたいに姿が消える。
直後、気配が背後に出現した。感覚を開いているブーリンは即座に振り向く。
「何ン——ッ」
恐ろしい面妖と目が合った。
魚のカシラを縦に割って広げたような被り物を被った人が立っている。
おおよそ同じ生物とは思えない無機性に、ブーリンは本能のままにロープを振り回す。
しかし、
「———ッ」
ロープは空回り、そこにいるのにすり抜けていく。何度やっても透過して、しかし、相手はこちらに干渉してくる。
『旱魃隊』は烏合のカスの集団ではなかったのか。それとも、目の前の人は『旱魃隊』ではないのか。
——記憶はそこで途切れている。
胃の中がぐちゃぐちゃする。そのぐちゃぐちゃを吐き出すと、饐えた使命と首を吊ったフィアが溢れ出てくる。
そうだ、僕は——、
「僕ンは間違ってない」
「開口一番それなんだ。ワロけるね」
ケラケラと笑いながら覗き込んでくるのは、紫髪の人好きのする顔をした男だった。
『旱魃隊』とは雰囲気が違うので、殺そうか迷って、結局やめた。
「案外まとも? それとも正気の二周目ってとこかい。そっちのがヤベーか」
笑みを絶やさない彼は、ブーリンを無理やり立ち上がらせる。
「気分は?」
「僕ンの、か?」
「そうでしょ。他に誰がいるのって話」
軽く腕を回しながら確かめるが、悪いところは一つも無さそうだ。
つまり——、
「さっきのアレはお前ンが片付けたのか?」
「まあね。てか、『旱魃隊』と正攻法で戦うとかちょけすぎてんよ。オレいなきゃ殺されてたね。マジで」
彼の言う通りだろう。あの恐ろしい化け物に命を取られる寸前だった。
だからこそ、彼は命の恩人ということになる。
「いやぁ、感謝してよ。マジで。とはいえ命が助かったのが必ずしも幸せとは限らないかも知れないけども」
「それはどういう——」
「オマエには選択肢が一つ残されてる」
たった一本の指を立てて、彼はブーリンの前に突きつける。
「オマエを『七躙』に勧誘する。拒否権はない。——だから、もう決定。はいオッケー。もう行こう。すぐ行こう」
「行くってどこに」
「『奠国』」
突飛な国が出てきてブーリンは鼻白む。『流国』と『奠国』は距離が近いが、大きな関わり合いがある国ではない。
そこに行ってどうなるというのだ。
「『七躙』ってなんだ」
「そりゃ『奠国』のめちゃ強い『影跋』のことよ。最近……ってほどでもないけど、いっぱい殺されちゃって今新規メンバー募集中なの。まあオレとメロヴィア以外死んじゃったから、もはや新ユニットみたいなもんだけど。笑えね?」
ブーリンの知らないところでお隣の『奠国』は大変なことになっていたみたいだ。
「で、どうよ。いやどうよってか、まー、他に選択肢ないんだけども。まあ、なんだ、そんな感じで」
適当に言葉をつないで、最後にブーリンの背中を叩く。
情報の詰まってない言葉をスルーしながらブーリンは考える。
勧誘を断るか否かではなく——、
「僕ンはまだ、この国ンでやり残したことンがある」
「————」
「それをやってから『七躙』ンに入る」
それは、自らの両親を縊り殺すことだ。それをせずにこの国から離れられない。
それを聞いた彼は、
「オマエの両親はジェリコにいる」
待ちかねたように、ケラケラ笑った。
——『流国』ジェリコ。
そこは砂漠地帯と草原地帯の境目に位置し、世界でもかなり珍しい風景が確認できる。
もちろんのことながら、物見遊山で来たわけではない。
目的は、
「———ぇ」
夜中に父親の家を襲撃し、情事に励んでいた彼を吊り上げる。
事前に用意した罠で、部屋の真ん中で彼が青ざめた顔になる。見事な一本釣りだ。
「いやぁぁぁぁぁああああぁっ」
急に父親との繋がりを断たれた女性——おそらくブーリンの方の母親が絶叫する。
それを聞いて、隣で眠っていた——おそらくフィアの方の母親が目を覚まそうとしていた。
それなら一生眠っておけばいい。
別の縄を張り巡らせて身体を持ち上げる。
「お前ン」
『七躙』の男が何らかの干渉をして、フィアの方の母親は苦しむことなく穏やかに死んだ。
「助かる」
いちいち苦鳴を聞かされたら、たまったものではない。
残すは、ブーリンの母親だけだ。
彼女はあろうことか妊っていた。おそらく二度目や三度目じゃない。
何度も彼女は出産と廃棄を繰り返している。
そう考えるとムカっ腹が収まらなかった。彼女は邪悪だ。不幸の生産者だ。
それを自覚させてやらなければならない。
縊り殺すのは後『二人』だ。
ブーリンは細い縄に持ち替えて、もっとも小さな一人を縊る。
そして、
「お前ンが殺したんだ」
フィアを殺された時と同じように自覚させる。
きっと、無自覚な加害者は地獄で悔い改めるだろう。
だから、地獄に送ってやる。ブーリンは縄を捨てて、廃人のように光を失った母親の首に手をかけた。
最後は扼殺にすることを決めたのは、一抹の情のようなものだったのかも知れないと後になって回顧する。
——『流国』のブーリン・フロートを思い出すときに考える。
彼の導きに、引っ掻き傷の刻まれた手の甲を撫でながら近づいていく。
「僕ンは『奠国』に行く。この国ンにはもう何もない」
空っぽの国に居続ける理由はもはや失われた。
「お前ン名前は」
母親から視線を外して、ブーリンは背後の男に振り返って話しかける。
「『七躙』が『武』、アルファ・カサノヴァ。そしてユーは今日から——」
アルファが親しみを込めて、呼び方を変える。
「『七躙』が『陸』、ブーリン・フロートだ」
『奠国』のブーリンは、込み上げる胃液を飲み込んで、この導きを喝采した。