彼女の涙
「アディア、なんてことを……」
ジュニが喋っている。
ファルシオンは黙っていた。まだ、ベッド、とぎりぎり云えるだろうものの上だ。すりきれて端が解れ、血がしみこんだ毛布が、膝の上でわだかまっている。幾つかの毛布を接ぎ合わせた、ぼろぼろのものだ。
アディアは項垂れていた。がたつく椅子へ腰掛け、膝の上で両手を合わせている。傍にはジュニが立ち、娘の肩に手を置いていた。
ファルシオンは自分がどこに居るのか、理解した。広場のなかでも、一番坑道近くにある小屋だ。一番大きいが、誰も普段ここでは寝起きしない。ファルシオンがここへ来た最初の晩にも、誰もここへは這入らず、だからファルシオンもこの小屋は避けた。同じ船にのった連中もそうしていた。そういったことに敏感になっているのだ。
ファルシオンの判断は間違いではなかった。ここは、怪我人が運び込まれるところだ。運悪く、坑道で怪我をした人間は、怪我が治るまでここで寝起きする。
ファルシオンは一度しか見たことがないが、体調が悪くなった場合もここへうつっていた。痩せこけて目ばかり大きい男がここへ這入り、数日後に死んだのをファルシオンは覚えている。
怪我にしても病にしても、治らなければここでそのまま死ぬ。そうしたら、外へ運び出された監督官が遺体を確認して名簿を整理し、誰かが遺体を運んでいって、溶岩流へ放り込む。
小さな怪我やちょっとした不調なら、ここへ運ばれることはない。ほとんど、助からないのがわかっているような人間が、ここへ運ばれる。ファルシオンは仲間達から、「死ぬだろう」と思われていたと云うことだ。
ベッドも、その上の毛布も、血がしみついている。ぎゅっと握ると、ごわついていてかたい。握った形のまま、もとに戻らない。
ほかの小屋の毛布は、男達が坑道に這入っているあいだ、女達で洗ったり繕ったりしているが、ここのものだけはそれをしないらしい。ぼろぼろになってつかえないような毛布を数枚はぎあわせて、一枚にしているもので、これ以上手をかける必要性を感じないのだろう。ここは傷病者を看取る為の場所で、清潔にしておく必要も、片付けをする必要もない。死ぬ前の最後の数日、数時間を、特に快適にしなくてもいい。そういう考えだ。
「ファルは魔力がないのよ、お父さん」
アディアが項垂れたまま、とても小さな声で云った。「わたしと一緒なの」
「アディア」ジュニは溜め息のように云い、頭を振る。「お前の為に、折角、用意したものだったのに」
ファルシオンははっと、顔を上げる。ジュニと目が合った。ジュニは怒っているような、弱っているような様子だ。
ジュニはよく、魔水晶の数をごまかしている。
といっても、渡す相手を調整する為にしていることで、実際に数を少なく申告している訳ではないとファルシオンは考えていた。百とれたのに九十九だったと偽るのではなく、昨日とれたものを今日とれたと偽るような、数量ではなく時間だけをごまかすやりかただと思っていたのだ。
しかし、ジュニは魔水晶を着服していた。女のなかには男にまじって魔水晶を採掘する者も、居るには居る。しかし、アディアは坑道へは這入らない。彼女が魔水晶を手にいれるとしたら父親からだと、どうしてさっき気付かなかったのだろう?
ジュニは娘に、魔力を持たせようとしている。それをためすことでアディアが死ぬかもしれなくても、ここにずっととじこめられているよりはましだと考えたのだろう。
ファルシオンにはその気持ちはよくわかった。アディアはこのようなところで、ただ朽ちるのを待つだけのような暮らしをすべきではない。彼女にはもっと楽しいことも面白いこともしあわせも、充分に与えられるべきだ。
彼女はここで終わっていいひとじゃない。
アディアは父親を、かすかに睨む。
「お父さん、ファルが死んでもよかったと思ってるの?」
「アディア、そういう問題じゃない。それに、ファルシオンには悪いが、どう説明する? ほかの者は皆、死んだ。ファルも昨夜は死にかけていた。それがこれだ。監督官がどう考えると思う」
「あのひとはここまで来ない。このお家には這入らないわ。運び出された死体を確認するだけ」
アディアは辿々しく喋る。ずっとここで育ってきた彼女は、罪人達としか喋ったことがない。だからだろう、時折ぎこちない言葉遣いをすることがあった。
「ファルはしばらくここに居るの。その間、わたしが世話をしているってことにする。毎日、そうして、死にそうだったけどなんとか助かったってことにしたらいい」
「しかし……」
「お父さん、もうあげてしまったの」
アディアは父親そっくりな仕種で頭を振った。
「起こったことはかえられない。でしょう? それとも、お父さんもいやなひと達みたいに、気にいらないからというだけでファルを殺すの?」
ジュニはファルシオンに、しばらくは外に出ないようにと云って、居なくなった。
ファルシオンは壁によりかかり、扱いに困る感覚に息を吐く。魔力がある、というのは、気持ちの悪いものだった。今までなかった手や脚があるような感じだ。どう扱ったらいいのかは、魔導師達に鞭打たれながら学んできたから知っているのだが、それでも落ち着いてはいられなかった。
アディアが別のベッドから毛布を持ってきて、ファルシオンの上体にそれを被せる。それをしてもらって、ファルシオンは自分の体がかすかに震えているのに気付いた。寒い訳ではない。溶岩流のおかげか、島全体、地面があたたかく、種類は豊富ではないが植物も多く生えている。
「ありがとう、アディア」
「ううん。どこか、痛む? ファル?」アディアは優しく、ファルシオンの髪を撫でた。「あなた、わたしの云っていることがわからないみたいだった。みんな、あなたが死ぬと思ってた。だから、どうせ死んでしまうのなら、魔水晶をためしても一緒だと思ったの……つかってもいいか、訊いたんだけど、返事をしてくれなかったから。ごめんね」
「いや。ありがとう」
ファルシオンは息を吐く。
「本当に、助かったよ」
アディアは嬉しそうに微笑んだ。その表情が歪み、目に涙がきらきらと光る。「ファルが死んだらどうしようって思ったの。いやだったの」
みんな、わたしが死ぬことを望んでいるのに、アディアは違う。