「殿下」
ジクエフが動いたので、ファルシオンはびくりとして、腕で体を庇った。だが、ジクエフはファルシオンを見もせず、魔水晶を抱えて、出入り口へと向かう。魔水晶から顔を背けつつも見詰めるその眼差しは、明らかに怯えを含んでいた。まかり間違って胸へおしあてたら、魔力を奪われる。かといって額におしあてれば、魔水晶自体がなくなってしまう。ジクエフの表情は、手にしているのがいやだ、とでも云いたげだった。
ジクエフは片手で扉を最小限開け、すりぬけるように体を斜めにして出ていく。扉がきしみをあげて閉まると、監督官は苦笑めいた表情になった。
「そう怯えなくてもいいだろう。殿下」
もう一度、ファルシオンは、びくりと震える。監督官を凝視し、口をぱくつかせる。心臓がのみのようにはねていた。殿下。殿下、と云った。アンシューのように。
監督官は鼻で笑った。疲れのにじんだ顔だ。貧弱な体を揺らし、少しだけ咳をしてから、彼はこぼすように云う。「まあわかりきったことだ。監督官は、流刑人の罪状をすべて知ってる。あんたが誰かも、当然知ってる」
ファルシオンは口を噤み、なにも云わない。釈明はしようがない。自分が王族なのは事実で、動かしようのないものだった。王族がきらわれていようとも、自分が父に軽んじられ、蔑ろにされてきたとしても、王の三男であることはかわらない。
王子の称号を奪われたから即、王家とは関わりがないとは、そんなふうには思えなかった。「王子」ではなくなっても、王の子ではある。それはファルシオンにとって、とても重たいくびきだ。
監督官は右脚の上に左脚を重ねるようにして、せなかをまるめた。脚が痛いのか、一瞬顔をしかめる。だが、すぐに表情を消した。
「ファルシオン・ハヴィーナ。もと第三王子。といっても、王子として軍を率いたこともなければ、式典に参加したこともない。辺境伯家の血をひきながら、そのように粗末な扱いをうけていたのは、魔力なしだから」
鞭で打たれているような気分がする。
鞭で打たれるのは、その一瞬だけでなく、あとも痛い。ずっと痛みが続く。そういうものだ。打たれたことがあるから知っている。重たい痛みがずっと続く。
監督官はなにかを思い起こすような間を置いて、続けた。
「罪状は反逆予備罪。王子の称号を剥奪の上、流罪に処された。ハヴィーナ家は関わり合いになるのをおそれ、弁明や釈明をしていない。減刑の嘆願さえ。お前自身も、口を噤んだままだった」
釈明をしていないのではない。する時間がなかった。させてもらえなかった。第一、なにを話すというのだろう。当時のファルシオンの立場であれば当たり前に行うようなことでさえ、反逆の準備とされたのだ。事実、近衛兵の鍛錬はしていたし、魔法についても学んでいた。それで捕まったのだから、釈明もなにもない。しようがない。すべて事実で、その事実で捕まった。いわれのないことで捕まったのではない。
罪状に並んでいた「事実」が、王子ならば当然することだったのを、誰もが不思議に思わなかったのだ。国の重責を担う者達が、きちんと法を学びそれぞれの責務をこなしている筈の、貴族だとか王族だとか僧だとかが、何故だか皆そのことに気付かなかったのだ。
意見を求められず、権利などないファルシオン以外が。
監督官はファルシオンを見る。鋭い目付きだ。ファルシオンはびくついたが、目を逸らそうとはしなかった。じりじりと、後退り、かごにぶつかってはっと振り返る。かごは倒れた。ぱさり、と力のない音をたてて。その音は、ぞっとするくらい、溶岩流に投げ入れられる人間のたてる音に似ていた。
ぱさり。
そうして、炎をたてて燃えていく。ちりちりと、頼りない小さな音だ。
人間はあっという間に流れにのみこまれて、声も出さずに命を失う。
「で? ファルシオン、なにか云うことはないのか」
監督官はじっと、ファルシオンを見たままだ。ファルシオンは自然と、それを見詰め返していた。胸の内に、いやなものがある。そこにこごっているものが溶けている。溶けて体中へひろがっていく。なにかわからない、気色の悪い、いやなもの、存在を、自分のなかに存在しているということを認めたくないもの、目を逸らしてなかったことにしたいものが、そこにある。レーンの咽にある魔水晶に似たなにかみたいに、いやなものがそこにかたまっていて、溶けて、体中に、ひろがる。ひろがる。いずれ外に出てくる。そういう妄想が頭のなかで渦をまいていて、魔力坑の近くに長く居すぎた、と思う。魔力にさらされ、幻が見えているのだと。
濃い魔力の悪影響をうけるのは、魔力が乏しいか、魔力のない人間だ。魔力のない、弱い人間は、空気中の魔力に体の機能を攪乱される。数度、小さな魔法をつかえる程度の人間は、魔力などないに等しい。
弱い人間。
魔力のない、劣った人間。
どうせなら、うまれた時に魔水晶を与えてくれればよかったのだ。死んでいたとしてもよかった。こんな惨めな人生を、いや人生とも呼べない、絞りかすのような日々をすごすのなら。
以前はそんなふうに考えたこともあった。魔水晶を額にあてたらどうなるのか、考えてもいた。でも大概、想像のなかでファルシオンは、魔水晶の為に死ぬ。魔力、というものに拒絶され、死ぬ。
実際は違った。魔水晶はファルシオンを生かした。魔力を与えることによって。
そしてファルシオンは、自分の人生を、悪くはないものだと今は考えている。アディアを助ける為にどこかの神が与えてくれたものなのだとしたら、喜んで受け容れる。魔水晶が自分を生かしたこともまた、神の導きと思えなくはない。「神」なるものがなんなのか、信仰心を持たないファルシオンにはまったく理解の埒外だが、理解できずとも役に立つのならばそれでいい。火がどんなものか理解していなくても、利用することはできる。それと同じだ。神がなにかわからずとも、人間が魔物を屠れば強くなるのは事実だから。
そう、事実。
すべてが神の賜物だというのなら、ファルシオンは神に感謝する。ただ一点、アディアを助ける力を、ほんのわずかでも与えてくれたことを。力を得る為の手段を与えてくれたことを。
監督官は傍らの女を見る。女は相変わらず、魔水晶を持っていた。ジクエフと違い、こわくはないのか、今は両手で魔水晶を持っていた。布で包み、胸の前に、半ば抱えるようにして。
先程の魔水晶も綺麗だが、エミリルの持つものも美しい。以前持っていたものとはまた、少し違うらしかった。同じような色だが、形が違う。もしかしたら、一部を欠いて、魔力を増やすのにつかったのかもしれなかった。
監督官は女に手を伸ばし、女は低声でなにか云いながら、監督官に布の包みを渡した。魔水晶の下に置いてあったのだ。片手で握りこめるくらいの小さなもので、重さもあまりないようだった。それをうけとると、監督官はまた、ファルシオンを見る。
「俺に弁明して、流罪を解いてもらおうとは思わないか? ま、木っ端貴族にそんな権限はないけどな」
監督官がなにを云っているか、いまいちわからなかった。不可解だ。この男の云うことは、不可解だ。
弁明や釈明を求められている、とは思えない。喋って、ろくな目に遭ったことはない。だめだ。騙されている、と強く、思う。なにか云わせて、自分の都合のいいように解釈する。それが狙いだろう。
実際に監督官が弁明、なにかしらの釈明を求めているとしても、ファルシオンは喋らなかったろう。喋っても意味はない。監督官ひとりの裁量でどうにかなる程、「王子の反逆未遂」は軽い罪ではない。監督官ができる範囲でのなにかはしてもらえるかもしれないが、ファルシオンはそれも願い下げだった。ひとに傷害されるより、いやなことが、ある。
監督官はまた、エミリルを振り仰ぎ、少し黙る。エミリルはじろじろと見られても気にならないのか、じっとしている。その気色の悪い、人間らしさの乏しい瞳は、ファルシオンを見据えていた。ほとんど黒の髪が、隙間風にかすかに揺れる。
監督官が云った。
「あの魔水晶は、実際のところ、品質が高い。魔力が多くこごっているからな。ありがとうよ、ファルシオン。なにか願いがあるなら、俺のできる範囲でかなえてやろう」
胸が酷く痛くなってきた。心臓はまだ動いている。死んではいない。だが生きているだけなら不必要なくらいに、動きすぎている。
「あたらしい服でも、酒でも、チーズでも、お前達に渡して問題ないものなら、用意してやる」
「ぼ」言葉が咽にひっかかった。心臓に空気がひっかかったのかもしれない。ファルシオンはなんとか喋る。「僕が、王子だったことは、誰にも云わないでください」
監督官が睨むような眼差しをくれた。ファルシオンは体を震わせる。監督官がどうして、あんなことを云いだしたのか、考えたのだ。
ろくに思考が働かない。じわじわと体中に汗がにじんでいる。魔導師や剣術指南役は、意味なく攻撃的だった。そして無駄な攻撃をしてきた。少なくともファルシオンにはそう思えた。ファルシオンが居なくなっても、彼らが都へ戻れた保証はない。不満だからと云って、ファルシオンをやたらと攻撃する必要はない。従兄弟や伯父伯母、従兄弟の乳母達のやりようも、魔導師達と同じだ。無意味に攻撃する。攻撃したとて、あのような方法ではなんにもならないのに。
この監督官は違った。そういったあからさまで、効率の悪い攻撃ではない。もっと巧妙だ。彼はまた、ファルシオンの出方をさぐっているように見えた。ファルシオンのなにかを調べている、はかっているようにも、見える。
食糧やなにかを要求するつもりはなかった。なにを云っても、お前には大きなものだと云われかねない。ソワンでアディアの母を助けてくれと、咽までその言葉が来ていたが、ファルシオンは口を噤む。監督官の狙いはわからないが、考えることはできた。尊大なもと・王子に褒美をやると持ちかけ、なにかを要求した途端、それはお前には過大なものだといって処罰を与える。
アンシューが、あの態度だったのだ。貴族らしいこの監督官が、王族に対してどんな気持ちを持っているか、想像はつく。横暴な王家に嫌気がさしているなら、これは絶好の機会だ。「もと」とはいえ王子を、自分はまったく傷付かずにいたぶれる。そんな機会が目の前にぶらさがっている。彼はそれを、喜んでするかもしれない。
アンシューはそうだった。一度でも王子として扱われた人間を、いうなりにさせることに、彼はなにかしらの喜びを見出していたらしかった。
監督官はせなかをまるめて、両肘を脚についている。下から睨むような眼差しだ。ファルシオンはそれを見ている。自分の息遣いが、とても煩い。
空気が悪いと思った。魔力が多すぎるのだろう。いずれ、咽が詰まって死ぬかもしれない。
エミリルが動いた。
ファルシオンは飛び退いて、女から距離をとる。反射的に掴んだものは、誰かがつかっているであろう毛布だった。すりきれて、向こうが透けて見えるほどになっているけれど、穴は開いていない。両端を持ってねじりあげる。まだ、破れそうにはない布だ。幾ら妖精の女でも、縊れることはあろう。それに期待するしかない。
「落ち着け」
監督官が声を低める。エミリルはその前に、監督官の視野を半分塞ぐようにして立っている。じっと、両目でファルシオンを見て。
ファルシオンは喘ぎ、目を伏せている。目を伏せていても、女の足許を見ていた。脚が動けばわかる。魔法をつかわれたらどうしようもないが、毛布で防ぐ。少しでも防げば、反撃はできるかもしれない。
「落ち着けというのが聴こえんのか?」
すっと、視野からエミリルの足が消えた。女は黙って後退り、監督官の隣に戻る。監督官は呆れたように小さく息を吐いて、男にするようにエミリルの肘の辺りを軽く叩いた。実に気楽そうな調子だ。
ファルシオンは頼りない毛布をおろし、俯く。
監督官が立ち上がったが、威圧感も攻撃的な雰囲気も、なかった。ファルシオンは黙って、小さくなっている。萎縮している、と思われたなら、それでいい。自分を強く見せていいことは、おそらくない。少なくとも、この場では。
「パンを運ばせる。それに、チーズも。服が随分くたびれているようだから、人数分は用意しよう。新品とはいかんがな」
言葉は耳へ届いたけれど、意味を理解するのに時間がかかる。食糧も、服も与えると、彼はそう云っているらしい。おかしくなったのだろうかと、そう思う。魔力坑に近付きすぎて。或いは、このような辺境の島での仕事に疲れて。
この場所で流罪に処された人間を見張るなんて、流罪になったようなものだと気付いた。都をはなれ、おそらくは出世につながらないこんな仕事を、文句も云わずにこなさないといけないなんて。
顔をあげる。監督官は、目を伏せていた。自分の足の爪先を見ているらしい。それが非常に興味深いものみたいに、目をはなさない。
「で、本当にそれだけでいいのか、ファルシオンくん」
ふざけた調子だ。ファルシオンは迷い、頷く。ソワンのことは云わない。この男に頼んでどうにかなるとは思えない。
監督官は肩をすくめ、後頭部を掻いてから、片脚をひきずって出入り口へ向かう。エミリルがそれについていく。監督官の影のように、はなれずに、けれど決して、ぴったりくっつくようなこともなく。
扉に手をかけ、監督官は振り返った。「じゃあ、また会おう」
それには返事をしなかった。会いたくなかったからだ。