したくない
いつものように、夜の森へ這入ろうとしたファルシオンは、ふと足を停めた。
「よう、ファル」
笑いを含んだ声に振り返る。星明かりに照らされて、ほりだされてむしろの上に並べられた魔水晶が光っているのが目の端に見え、それよりもだいぶ自分に近い位置にアンシューが居るのにファルシオンは気付いた。
アンシューはのみを持っている。魔水晶の採掘担当が、かなり微妙な作業を必要とする時につかうものだ。
魔水晶は安定した物質ではあるが、割れる。まっぷたつに割ってしまうことは、採掘担当になったばかりの者がよくやる失敗だった。魔水晶はある一定方向からの力に弱く、衝撃で簡単に割れてしまう。つるはしで叩くならともかく、運搬の時に落とす、揺らしてぶつけるなど、それくらいの些細な衝撃でも魔水晶は割れた。へたをすれば、十近くの欠片にばらけてしまうことさえある。
勿論、割れてしまっても、効能に変化はない。ない……という。それが事実かどうかは、ファルシオンは知らない。
だが、王侯貴族なのかそれに命じられている将軍や官吏なのか、それとも魔水晶を輸送している兵士なのか、或いは監督官なのか、誰かは知らないが、誰かが、魔水晶を成る丈大きな状態で掘りおこすことを望んでいる。
少なくともジュニはそう捉え、そうできるように皆を指導し、自らも動いていた。魔水晶らしき鉱脈を見付けた場合、ジュニやゼフトンなどのこの島が長く、たいまつでもある程度は魔水晶かそれ以外の鉱物かを見分けることができる人間を呼ぶよう、採掘担当ではないファルシオンさえいいつけられていた。採掘担当のぬけがけ、ひとつの坑道に這入っている連中が示し合わせて手柄を独占するというようなことが起こらないように、という意味でもあるだろうが、なによりもジュニは魔水晶が割れることをおそれていた。まるでそれが、なにか大きな裏切りや背信行為であるかのように、見付けた魔水晶は綺麗な状態で掘り出すことをジュニは心がけている。
アンシューが掴んでいるのみは、だからそういう用途でつかわれるものだった。つるはしを振りかぶって魔水晶を砕く危険を冒すのではなく、もっとしっかり狙いを定められるのみで細かく土をとりのぞき、また更に繊細で気が滅入るような作業を、ゼフトンのような魔水晶にくわしい男が行う。
ファルシオンはアンシューの手のなかにあるのみを見ている。アンシューは唇をゆがめて微笑んだ。およそ友好的ではない、控えめに云って醜悪な表情だ。魔導師達や、剣術指南役に似ているなと、ファルシオンは思った。このひとは決して、わたしに対していい感情を持っている訳ではない。「森の神に会えそうな夜だな。ちょっと付き合わないか? 可愛い子ちゃん」
ファルシオンは黙っている。アンシューは先程からずっと喋っていた。喋らないと死ぬみたいに、ひたすら。いつ息継ぎをしているのかわからないくらいに、ひたすら。
ファルシオンは膝を抱えて座っている。そこでおとなしくしていた。頭のなかでずっと、危険、という文字が躍っている。
アンシューはどうかしたように喋りながら、音をたてないように、ぼろきれをまきつけた手で土を掘っている。ついさっきまでつかっていたのみは、その足許に転がっていた。細い枝を乱雑にまとめた、粗末なたいまつは、頼りない光を発している。「あいつら、目にもの見せてやる。クズどもめ、クズどもめ、クズどもめ……」
「アンシューさん」
「ああ、第三王子の噂を聴いた時のお前の顔は酷かったぜ、可愛い子ちゃん、森の愛し子。ファルシオン、なあ、嘘を吐く必要はない。お前は第三王子だろ。俺は見た。この目で。お前は俺のことなんて覚えちゃいないだろうがな。殿下がたにとっては兵士は、靴の片一方よりも劣るものだ。ご自分が腰に佩いている剣のほうが十倍も価値がある。俺達を命のある、血の通った人間だとも思っちゃいまい。じゃなくちゃ、森の神に対して無礼ってもんだ。人間は森の神が庇護しているものなのに」
ファルシオンはまた、口を噤んだ。体が少し、つめたい気がしている。肌が粟立っていた。腕をさする。
アンシューは、兵士だった。貴族の傍仕えをしていたと、先程口にした。その頃、宮廷に呼び出されたファルシオンを見たことがあるらしい。ファルシオン自身は、宮廷に居る人間達をすべて覚えていないし、アンシューが居たかどうかは知らない。
すべてを肯定はできないが、彼の言葉にはある程度の事実が含まれている。ファルシオンにとって、兵士は「兵士」で、一個人ではない。
勿論、兵士が命の宿った人間であること、決してないがしろにされていい存在ではないことは理解している。王家の一員として、まもるべき国民のひとりであることも、王子として奉仕すべき相手であることも。
かといって全員に配慮しようとも、全員の名前を覚えようともしなかった。そのようなことをしようということすら、頭をよぎることもなかった。何故なら、ファルシオンがそのような扱いをされなかったからだ。彼は彼自身のことに手一杯で、他人の為になにかをするという発想も、習慣もなかった。余裕がなかったのだ。
王家の人間が、善良なひと達を踏みつけにして、流刑に処していると憤っていたのに、自分もそれと似通ったことをしていた。無視し、記憶にもとどめないという方法で。
アンシューは魔水晶を求めているらしい。先程から彼はそのことを、ファルシオンに聴かせるつもりがあるのかないのか、ささやき続けていた。こうやって、よなかにひとりで坑道に忍びこんでは、採掘をしている。けれど、魔水晶を掘り当てられたことはないそうだ。「魔力さえあれば俺は、こんな暮らしをやめられる、あいつらに目にもの見せてやるんだ、あのクズども」つるはしは、かたい岩盤を叩いて音をたてることがある。だからつかうのを辞めたと、アンシューはそのことを自慢げに話していた。自分がさも、切れ者であるかのように。
ファルシオンは項垂れる。膝の間に顔を埋める。アンシューに、ここまでひっぱってこられた。手伝えと云われたが、ファルシオンがなにもせずにじっとしていても、アンシューはそれを咎めない。ここに居るだけでファルシオンが共犯だと――ジュニや、仲間の流刑人達への裏切り行為をしていると――思っているのかもしれない。だとしたら、ファルシオンは不本意だった。仲間達、なによりアディアを裏切るつもりはない。
しかし、すぐに坑道を出て、ジュニが寝起きしている建物へ飛びこみ、アンシューがぬけがけをしようとしていると告発する気も起きなかった。ファルシオンは、負い目を感じているのだ。兄達や父王、宮廷全体を心のなかで批判していたくせに、自分も同じ穴のむじなだった。兵士を一個人として見ず、人間だということを本当の意味では理解できていなかった。だから、ここでアンシューを告発するのは、王子的な……アンシューの事情や人生や、彼の感情を無視した行いのように思えてしまって、ファルシオンの体は動かない。協力したくもないが、告発もしたくない。
「お前、よく森に行っているだろう」
質問ではなかった。アンシューは、ファルシオンが答えるひまを与えなかった。「あっちには魔水晶はないぞ。なにもない。いや、魔物は居るな。まばらに。だからここのほうがいい。多少ほりすすめても誰も気付きやしないし、魔物が出れば一瞬でなにもかもが終わる。どっちにしても勝つ賭けだ。こっそりあいつらをだしぬくか、くだらない人生におさらばするか」
「アンシューさん、僕は」
「お前だってここを出たいんだろ」
今度は質問だ。
ファルシオンは黙っている。答えずにいる。うなだれ、じっとしている。
魔導師に打ち据えられるのを待っていた時のように、震えている。
「機会があれば俺はやる。ジュニがめざとくて、魔水晶をくすねることができないだけだ。俺があいつの立場ならとっくにこんなところおん出てる。あの臆病には反吐が出るね。折角森の神が情けをかけてくださってあんな立場だっていうのに。俺は魔力が多かった。魔水晶は俺にまた、あの魔力を戻してくれる筈だ。そうしたらあのクズども、俺をこんな目にあわせたやつらを、ここに送りこんでやる。今度はうまくたちまわるさ。俺は同じ失敗はしない。金も、家も、とりもどす。絶対に、あのクズども、クズども、クズども……」
ファルシオンは目を瞑り、耳を塞ぐ。アンシューの様子を見ていたくないし、アンシューの声を聴きたくない。
自分がいずれこんなふうになりそうだと思ったからだ。