「たのしいこと」
ある日、アディアが夕食に顔を見せず、ファルシオンは不安を覚えた。
ほかの男達も、アディアが居ないことに気付いて、粥を配る女達に聴いている。女達は頭を振って答えない。
アディアが薬をつくっていて来ないことは、今までにも数回あった。母親の病に効くものをどうにか、森や、川辺で手にいれて、ジュニやもともと医師だったという男と相談し、薬をつくるのだ。芳しくはないようだが、アディアは文句も泣き言も云わず、黙って薬を用意し、母親へ持っていく。
だが、そうならそうと、女達は云う筈だ。アディアが居ないのは、薬をつくっているからではない。
もしかしたら、魔物の子どものことでなにかあったのだろうか、と、ファルシオンは不安になった。占い師の女が、あの魔物の子どもを危険だと云い、監督官が魔物の子どもをとりあげたのかもしれない。とりあげるならまだましだ。殺したのかもしれない。魔物を手懐けて、脱走しようとしているとでも云って。それとも、アディアになにかあったのかもしれない。アディアが怪我をしていたら? アディアが、もし……。
「ファル」
ジュニがやってきて、くいっと顎をしゃくった。「ちょっと来てもらいたい」
ジュニが示したのは、女達がまとまって寝起きしているという建物へ通じる道だ。左右に山というか丘というか、土が滞積していて、その間を細い道が通っている。そこを通れるのは女か、かつて都で医師をしていたという、今は盲目になってしまった流刑人、それからジュニだけだ。その流刑人は、たまにジュニに手をひかれ、そこから奥へと歩いていっていた。
広場でアディアに薬のことを教えているのを、見たことがある。といっても、この辺りには薬材としてつかえるものはあまりなく、盲目の流刑人はそのことを悔しがっていた。流刑人であってももとは医師で、具合を悪くしている人間を前に手をこまねいているのをよしとはしない。
女達の暮らしている建物へは近寄るなと、初日に云われた。それを、どうして、とファルシオンは思ったが、口にはしない。ジュニがいつになく沈んだ表情だったからだ。
「お前に会いたがってる人間が居る」
女達がすごしている建物は、坑道近くにある小屋よりも、幾分立派だった。溶岩流が流れてくる山へ、へばりつくようにして建っている。二階建てで、外壁に寄りかかってアディアが立っていた。俯いている。足許には、あの魔物の子どもが居る。
ジュニがなにも云わず、建物へ這入っていった。アディアの足許に、ごつごつした木の棒が落ちている。盲目の流刑人が杖につかっているものだ。ここへ来ているのだろう。彼は、坑道へ這入ってもなにもできず、魔水晶の選別も出来ない。それでもジュニは彼を見捨てず、普段なにもできなくても粥をくわせ、生かしている。なにかあれば、盲目であっても、傷を縫うくらいは出来る男なのだ。怪我人がそれで、何人も助かっている。傷を縫えるか縫えないかで、生きるか死ぬかがかわることは、実際にある。
ファルシオンは、どうにもいやな雰囲気に、脚をひきずって歩いた。体が普段の数倍の重さをしているように感じる。「アディア?」
出した声はみっともなく震え、ファルシオンはそのことに自分でびくついた。
間近まで行くが、アディアは顔を上げない。魔物の子どもは地面に尻をつけ、前肢で杖を触って遊んでいる。杖は、節くれ立った木の枝なので、軽く揺れはするが完全に転がりはしない。
「あの……」
「退屈だな」
アディアは静かに、なんでもないように云う。「本当に退屈。生きているって、退屈」
ファルシオンは黙って、彼女の肩を抱いた。彼女は俯いたまま、ファルシオンの胸へ顔を埋める。その体が小刻みに震えはじめ、ファルシオンは彼女が泣いているのに気付かないふりで、抱き寄せる。
「そんなことない。アディア、楽しいことは、沢山あるよ。一緒に、楽しいことをしよう」
「……どんなこと?」
「例えば……」
ファルシオンは答えようとした。必死に脳髄をしぼった。けれど、無理だった。彼自身が「楽しいこと」なんて知らないからだ。
楽しいことを思い出そうとすると、坑道でいい働きを出来た時や、仲間達から親しげにファルと呼ばれ、肩を組まれ、熱い粥をすすってどうでもいい話をする時、アディアと森を歩いて虫を捕っている時、魔物の子どもとアディアが遊んでいるのを見ている穏やかな時間、そういうものばかりがぱっぱっと、雷のように思い浮かぶ。
ここに来るまでに、楽しいことなんてひとつもなかった。
ファルシオンの人生のなかで、ここが一番、まともな場所だった。まともな扱いをされる場所だったのだ。
アディアは黙って、ファルシオンのせなかに左腕をまわす。ファルシオンは罪悪感に心臓がどきどきと、高くうつのを感じながら、彼女の頭に鼻先を埋める。脂の匂いがする。自分にはなにもない。なにも、ほんの少しの、まともな人間の人生の絞りかすさえない。それなのに、アディアに対して「楽しいこと」なんて無責任に提案した。彼女は優しいからわたしを責めないだけだ。無責任に、配慮なく、与えられもしないものを目の前で振りかざした。せめて、今ここで、彼女になにか楽しみを与えられたらいいのに。
なにもない。
わたしにはなにもない。
ふたりが黙って抱き合っていると、ジュニが出てきた。「ファルシオン、来てくれ」