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夜行列車

「迷子……?」

「迷っていて、それでいていくべき場所へ、行く人の元へ夜行列車は向かうのさ。お嬢ちゃんは、どこかの銀白駅へ向かっているんだろう。でも、まだそのどこかをお嬢ちゃんは見つけられないでいる。あの子なんてもっと重症だよ。切符がプラスチックみたいに透明なんだ」


 青年は大袈裟に溜息をもらした。


 すると少年が革の靴を投げつけた。彼はひょいと避けると「それでね」と言って、気にせず香澄に爽やかに続ける。


「人によって考え方は違う。逃げ出して乗るんだという人もいれば、とにかくどこかへ行きたいと強く願っているから乗るのだ、と言う人もいる。何かを探すために乗車して、忘れてしまった目的のために乗るのだと言っている人だっている――けれど、皆迷ってここへ来るんだ。降りるべき場所に辿り着くと、その人にだけ、その風景が見える」

「そんな不思議なことが?」

「ああ、本当さ。君にもあの子にも、車窓は真っ暗だと思うけど、俺にはちゃんと見えているよ。今夜行列車は、雪山を左右に拝んで凍った湖の上を走ってる」

「湖の上を走れるわけがないだろ!」


 靴を取りに行った少年が、すかさずに怒鳴った。


 香澄は、薄い氷に覆われただけの湖の上を走る列車を思い浮かべた。青年は香澄の答えを心待ちにしているかのように、にこにこと彼女を見つめていた。


「あの、雪山に挟まれた湖なんて、あるんですか?」

「在るともいえるし、無いともいえる。あるときは湖であり、あるときはダムになっているから」

「はあ……」


 よく、わからない。


 少年がきちんと椅子に座ると、青年は八重歯を見せて二人に笑いかけた。踵を返しつつ、背中越しに振り返って言う。


「降りるべき風景に出会ったら、きっとすぐにわかる。乗車時間に制限なんてないからね。まあ気ままに楽しむといいよ。俺だって臨時の機関士だからね」

「じゃあ、あなたも降りるべき場所を……?」


 香澄が尋ねると、彼は出入口の扉を開いたままきょとんとした表情を見せた。数秒後に吹きだし、楽しそうにけらけらと笑う。


「ちゃんと免許は持っとるよぃ! ちょいと倅を迎えにね」


 古い言い方をしたあと、青年は我に返って咳払いをすると「じゃあな」現代風に言い改めて扉の向こうに消えていった。


「わかっただろ。この車窓からは何も見えないし、普通の列車とはわけが違うんだ」

「――うん」


 香澄は、少年になんとなく頷いて見せた。


 少年はしばらく両足を床の上でぶらぶらとさせていたが、冷え切った手先を温めるように強く腕を組み合わせた。


「俺なんて、二階の部屋に列車が停まったんだぜ? ありえないよ」

「でも、あなたは乗ったのね」

「……爺様の家だった。翌日には家に帰らなきゃいけなくなる。俺は、俺の家に帰りたくなかったんだ」


 少年は、小さな声を振り絞って答えると、足を椅子の上にあげて山を作った。


「目的地なんてないんだ。だから、俺はいつまで経っても降りられない」


 そうかしら、と香澄は思った。


 何も見えない車窓の闇を見つめ、若い父と母が同じように夜行列車に乗って南を目指した風景を想像した。


 ずっと北の街だと、父は言っていた。


 当時、そこには列車なんて通っていたのだろうか。


 もしかしたら、父や母もこの不思議な夜行列車の乗客だったのかもしれない――何とも不思議だと思った。


「でもね、きっと皆、どこかへ行くために乗るのよ」


 無意識に呟いた香澄の言葉は、白い吐息に溶けて消えていった。



 夜行列車の中は、時間の感覚がまるでなかった。


 数時間もずっと走り続けているような気もするし、一分一分がのろのろと流れているだけのような気もする。


 固い座席に尻が痺れる感覚はいっこうに訪れず、凍てつく寒さだけが身を震わせた。


「おい。腹、減らないか」


 沈黙に耳が慣れ切った頃、少年が声を上げた。


 香澄が顔を上げると、彼は手に持っていた菓子を彼女に放り投げて寄越した。


「うまいぜ」

「……見たこともないお菓子ね」

「大人はお菓子なんて食わねえだろ。だから知らないんだ」

「そうね。食べたことないわ」


 香澄は、褪せた色彩のプリントがなされた菓子の包みを開けた。『うまい棒』に似ているけれど、大きさはそれよりも一回り小さく、食べてみると質素な味が口の中に広がった。菓子の包みの裏を見やると、やたらと見慣れない標示で漢字が多い。


「この会社、聞いたことないけど……」

「ったく、大人ってのは、すぐ製造会社とか知りたがるんだ」


 侮蔑が込められた言葉だった。


「ごめんなさい」


 気を悪くさせてしまったらしい。香澄は素直に謝った。少年はすっかり調子が狂ったように唇をすぼめる。


「別に、いいけどよ」


 列車は、変わらず凍える暗闇の中を走り続けていた。


「それ、遺骨だろ」


 少年がちらりと盗み見した。香澄は「そうよ」と頷いて見せる。


「なんか、訳ありって感じだな」

「でも、遺骨だってよくわかったわね」

「婆様の葬式があってさ、……爺様が、それを大事そうに抱えてた」

「……そう」

「爺様と婆様のところが俺の居場所だったのに、爺様は、死んだ婆様を連れてどこかに行くっていうんだ。二階のあの部屋は、爺様と俺と、婆様の部屋だ……別荘にするなんて、ひどすぎるよ。だけどガキの俺にはどうしようもなくて、最後だと思って二階の部屋で寝ていたら、この夜行列車が来たんだ」


 少年は膝を抱え、遠くを見るような瞳をぼんやりと宙に向けた。凍てつく空間に消えていく吐息の向こうに、記憶の残像が形成されるのを眺めている。


 長いこと、二人は喋らなかった。


 白い吐息はやがて見えなくなり、いつの間にか窓硝子の霜も消えていた。


 まだまだ寒いけれど、指先が凍るほどの冷気はもう感じなかった。


「きっと、雪国を過ぎたんだろうな」


 少年がぽつりと呟いた。


「爺様のところも、雪が降っていたよ」

「戻らないの?」

「帰りたくない。このままじゃいけないんだろうけど……俺はいつまでも降りられないなんて思うのは、すごく矛盾しているんだろうな。きっとどこかで降りなくちゃいけなくて、心のどこかでは降りたいと願っているみたいだ」

「そうね。難しいけれど、あなたはまだ小さいもの」


 仕方がないわ、と香澄はスカートの裾を正した。


 自分が彼ほどの幼い頃は、こんなにもしっかりとしてはいなかっただろう。


 少年は、まだ小学校に進学してしばらくしたばかりの身体に、アンバランスにも大人の思考を植えつけられて困惑している――香澄は、そんな印象を抱いた。


 少年は、幼少期に大人の世界を生きているのだ。


 香澄は、自分の思い出を振り返ってみた。


 まるで昨日のことのように繊細な記憶が脳裏を流れた。父と母は、幼い香澄の世界を守り通していた。とても幸せだったことが、次々に季節を過ぎて年を重ねて行き、香澄はそれを噛みしめつつ涙を堪えた。


「どうしたんだ」


 少年が戸惑って尋ねる。


「なんでもないの」


 香澄はそう言って、父の遺骨を抱きしめた。


 その間も、記憶は一番幸せだった時代まで進行を止めない。香澄はだからなのか、ふと、少年に話しを聞いて欲しくなった。


「少し話しをしてもいい?」


 控えめに尋ねると、少年は小さな体で必死に言葉を選ぶように考え込み、そして怪訝そうな表情からどうにか力を抜いた。


「話してよ」


 彼がそう言った。遠慮がちに上げられた声は、吐息交じりで、なんだか中世的で、けれどひどく柔らかかった。

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