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8/12

夜とその時刻に導かれて

 外に出ると、冬に似た極寒の冷気が身に染みた。


 風のない凍てつく寒さだ――。


(どういうことかしら?)


 香澄は不思議に思った。ハタと思い出して、外へと足を進めた。


 母の遺骨の行方がとうとう見つからなかったのは、帰るべき墓へと父が送ったのかもしれない。


 父の話を思い返すと、父なら、父が引き離したという家族の元に送ってあげて和解した――気もするのだ。

 お詫びの言葉を添えて、死ぬ前に一度だけでもと連絡を取ったのかもしれない。


「ふぅ、まだ早い時間のはずなのに真っ暗だわ……」


 真冬並みの冷気が夜の闇に満ちていた。


 歩き慣れた住宅街には、冷気のヴェールがかかった灯りがぼんやりと映るばかりで、真っ暗といってよかった。


「はぁ」


 かじかむ寒さのあまり、父が入ったボストンバッグを胸に抱え寄せ、震える吐息を吐き出す。すると途端に真っ白い煙がたくさん出てくるのだ。


 疲れてはいたが、その驚きは自然と込み上がった。


「こんなに寒いなんて」


 やはり、口にする際の吐息もとても白い。


 父と通っていた公園までもうすぐ、という距離で、香澄は静まり返った空気を震わす暖かで奇妙な蒸気音を聞いた。


(何かしら……?)


 まさか、本物の上蒸気音だろうか。


 疑問を覚えた直後、急かされるようにハッと走り出していた。


 音が聞こえる方へ向かってスカートをひるがえし、駆ける。


 すると公園の入り口すぐに、見慣れない黒い物体が立ち塞がっていることに気がついた。それは公園の街灯に黒々とした光沢を照り返し、いかついフォルムをくっきりと浮かび上がらせている。


 角ばったプレートには『夜行列車』と金色の装飾で明記されていた。


 真新しいレールに収まった、重々しい機体と車輪の間から蒸気が上がっている。


 その列車には、小さな窓がいくつも並び、後方は闇の中に溶けて見えないほど長かった。


(どうしてこんなものが、街中に……)


 様子を観察しつつ先頭車両を目指して歩いてみた。


 機関室の窓だけが、明るい電灯を灯して開いていた。白いシャツに、見慣れない機関帽をかぶった若い男が顔を覗かせている。


「さあさあ、夜行列車はもうじき発進するよ! お嬢ちゃん、乗るのかい? 乗らないのかい?」


 やけに古い言い方をする青年だった。小麦色に焼けた肌に、楽しそうに笑った口元からは白い八重歯が覗いている。


 奥にはもう一人別の男がいた。彼はずんぐりとした身体に肌着を覗かせた着流しをはおり、顔を隠すように深々と軍帽を下ろしている。


「夜行、列車……?」


 香澄は、知らず知らずに呟いた。


 青年が表情豊かな顔を顰め、馬鹿を見るような具合に片眉を引き上げた。


「乗車一名の予定なんだが、ここで夜行列車を呼んだのはお嬢ちゃんじゃないのかい? ほら、ポケットに切符が入っているはずだよ」

「素人はこれだから困る」


 ずんぐりとした男が、口元に深い皺を刻んだままむっつりと言った。


 香澄は慌ててコートのポケットに手を突っ込んだ。


 そこには、硬質なカードのような感触が指先に触れた。まさか、と思って恐る恐る取り出してみると、それはカードほどの大きさと形をした銀白の切符だった。


「お、こりゃあ上等もんを持ってるなあ。高かっただろうに」


 香澄は、意味が分からなかった。


「え? い、いつの間にか財布から支払われてここにあるということ? ほんと、いつの間に……」

「いいから乗りな。夜行列車は長居無用だぜ。いろいろなところを走り続けているんだ」


 香澄は、慌てて駆け寄った。


 大きな男の方が無言のまま、香澄の腕を取って引き上げた。背後で硬質な音がして扉が閉まる。


 列車の中は、木材で出来ていた。古い昭和時代のワンシーンに出てくるような、どこか懐かしい感じのする造りだった。


 小さな窓が直線に並び、それに背をくっつけるようにして木材の椅子が続いている。


 第一車両は、バスほどのスペースで、香澄はその中央に腰を降ろした。


「あら?」


 今になって気付いた。向かいには、六歳ほどの少年が床につかない足を広げて座っていた。


 画家がかぶるような形をした紺緑の上質な帽子を深くかぶり、唇を一文字に引き結んで腕を組んでいる。


 すると夜行列車が、がたんがたんと振動して発進し始めた。

 それは昔、どこかで聞いたような懐かしい音を軽快に刻んで、走り出す。


 窓の向こうには何も見えなかった。窓硝子には、車内の様子が反射して映っているばかりだ。


 香澄は、父の遺骨を抱えたままぼんやりと車窓を眺めていた。窓硝子に反射する自分の横顔は、魂を抜かれた人形のように虚ろだった。


 じっと見つめていると、それは見知らぬ女性にも見えた。


 ふと、理解したのは、そこには初めてお見合いに臨んだ二十歳の頃とは違い、幼さなど残っていないことだった。


 ちょうど花開いた女性の大人びた鼻梁が美しく映え、愁いを帯びた瞳に縁取る長い睫毛が影を落としている。それは、亡くなった母にとてもよく似ていた。


『いつまで経っても幼いね』


 香澄は、そう言われていた時代を思い返した。


 あの頃は、ゆっくり成長していけばいいとも言われていた。人によって成長の進む速度はばらばらで、そうやって大人になっていくのだと、両親も微笑んでいた。


 ――幸せだった。あの頃は、とても幸せだった。


 車内は、しだいに冷たさを増していった。


 泣きそうになった香澄は、泣いては頬まで冷たくなると思い、氷のように冷たくなった指先をコートのポケットにぎゅっと押し込んだ。


 スカートで隠れた膝頭をすり合わせても、暖かくはなってくれなかった。向かいに腰かける少年は、半ズボンのまま腕を組んでじっと俯いている。


「寒くない?」


 香澄は自然とそう尋ねていた。列車の振動以外に人の声が恋しくなったからかもしれない。白い吐息が、寂しげに宙に霞み広がった。


 少年はちらりと顎を上げた。


「雪国に入ったんだ。当然だろう」

「雪?」

「この列車が寒い所に行くとさ、窓も凍っちまうんだ」


 少年はぶっきらぼうに「見てみろよ」と顎先で窓を示した。


 いつの間にか、窓ガラスの外側に氷の膜が出来ていた。木材の囲いにも霜が割れている。


 香澄は、愛想はないが親切に説明してくれているような少年を、まじまじと観察した。


 見覚えはないが、彼が来ている長袖と半ズボンの紺緑は、どこかの小学校の制服であったような気がした。


 少年の肌はなめられで、白くて、帽子から覗く癖のない髪は育ちの良さを匂わせるように列車の揺れに合わせ、時折さらさらと揺れていた。


 しばらく、寒さと沈黙が車両に満ちた。


 少年が指先が林檎のような色に染まった小さな手で、帽子をくいと引き下げた。


 香澄は木箱の父を引き寄せ、腹部の当たりで暖を取った。


「何も見えないわね」

「見えるはずなんかないだろ」


 少年は強い口調で言ったが、続きを話そうという空気を出して、ハッと直くしてみたいに押し黙った。


 そこへ、先程機関室から顔を出していた青年がやってきた。「やあやあ」とやけに慣れ慣れしい声を上げる。


「迷子の夜行列車へようこそ。――あれ、君はまだ降りてなかったのかい」


 青年が困ったように小首を傾げると、少年は大きく鼻を鳴らしてそっぽを向いた。帽子の下から覗くその唇はふっくらとしていて、香澄は彼がずいぶんと幼い子供であることを再認識した。


 すると彼に構わず、青年は香澄の前に立った。


「夜を走り続ける夜行列車へようこそ、お嬢ちゃん」

「あの、寒くないんですか……?」

「いんや、寒くないよ。先を続けてもいいかな?」


 香澄が肯くと、青年は半袖のシャツ姿のまま話し出した。不思議と、青年の口からは白い息は出て来なかった。


「これはね、様々な時間が溶け合った、曖昧な夜を走る列車なんだ。迷子の夜行列車とも呼ばれているけれど、目的地が決まっていれば、きちんと降りることが出来る列車なのさ」

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