父と娘
母の葬儀が終わったあと、父は病院で検査を受けた。そこで下った診断は、大腸癌だった。
それからというもの、辛い治療が始まった。
駆け抜けるように日々は過ぎていき、藤野の会社は一年も持たずに閉めることになった。
香澄が父の指示で会社を閉める作業を社員たちと進めると、ここぞとばかりに出てきた桜宮の企業が、とんでもない金額で土地を買収した。
まとまっとお金が入って来たのは、有り難いことだった。
父の治療には、毎月数万円もの費用がかかったが、二年は困らないほどの財産が手元には残った。
晃光は会社の勝手な判断による土地の買収に憤慨したが、香澄はどうにか過ぎ去った日々を懐かしむ気持ちを押し留めて「平気よ」と言った。
香澄にとっては、今がとても大事で、現在流れている時間の方が大切だった。
藤野の会社も、母がいる家も本当に大好きだったけれど、今は、父と帰る家があることの方が重要だった。
「香澄、結婚しよう。君の父の面倒も引き受けるから」
香澄が二十三歳の春、病院に見舞いに来た晃光はそう言った。
彼は三十一歳になっていた。
父の体調は良くなっていた。あと一カ月もすれば、一年ぶりに家に帰ることが出来るまでに回復していた。
大腸癌を宣告されたときの余命が脳裡にちらついたが、香澄はそれを振り払って晃光からのプロポーズを断った。
「思い出がたくさん詰まっている家で、お父さんと過ごしたいの」
あなたを好きかもわからない、とは言えなかった。
会う回数はじょじょに減り、過ごす時間も確実に短くなっている。
そこには、桜宮家の思惑があるように思われた。見知らぬ女性に睨まれたりすると気になり、どこからか桜宮家の人間が覗いていないだろうかと緊張し、まるですべての人に『桜宮晃光の婚約者として相応しいか』と審査されているような苦痛を覚えた。
お互いの肩や、手に触れることもない日々。
上べだけの『婚約』の文字が、そこにはあった。
それは、とても不思議なほどにまったくの赤の他人を縛り付けるものだ、と香澄は思った。
それでも――
「――今日は、また病室に来てくれてありがとう。お父さんも話せてうれしそうだったわ」
自分から婚約破棄を切り出せないのは、関係を終わらせられないのは、終わりを思って何かを切り出そうと思うたび、こちらを見つめる晃光の表情に胸が痛むせいだった。
彼はまるで察知でもしたみたいに、『それだけはためてくれ』と言わんばかりに、香澄を見つめてくるのだ。
「私は、今、恋をしているのかしら」
晃光が帰ったあと、香澄がふと病室でもらすと、父は困ったような顔で笑った。
「それは、お前が一番よくわかっていることだよ」
「そうかしら……婚約者なんて、何かの間違いだとずっと思うのよ」
「婚約したことをかい? 恋の定義なんて、どこにもないからね。桜宮君も、ずいぶん待っていてくれているもんだ」
「でも、結婚しよう、だなんて軽く言う言葉ではないでしょう?」
「まあそうだな」
父の笑顔が曇った。桜宮という名前が出るたびに、不安の影がちらついた。
「いいかい、香澄。お父さんはね、香澄が立派な暮らしの紳士と結婚するのなら、とても安心するだろう。けれど、辛いのならやめなさい。愛がある結婚には、決して辛さや苦しさはないから」
父は真面目な顔で言った。
「お父さんたちは、幸せな結婚だったのね」
香澄が納得した顔で微笑むと、彼はひどく優しげに笑い返してきた。
「そうだとも。始めの暮らしは貧しいものだったが、お父さんとお母さんは、それでも幸せだったんだよ。ひっそりと挙げた結婚式だって、世界がきらきらと輝いて見えた。世界で一番の幸福者だ。ずうっと一緒にいたかったから、結婚したんだよ」
けれど父は、そこでふっと表情を曇らせた。
「だが、桜宮家は……」
言い掛けて、彼は言葉を濁した。
香澄には、父が言いたいことはよくわかっていた。
会社を失った彼女たち藤野に、桜宮家は一片の興味すらなくしてしまっただろう。
二人の別れは、もうそこまで迫っているのだ。
(――恋はよく分からない。でも、私は……彼には、幸せになって欲しいと思うわ)
◇◇◇
五月に、父は一度帰宅を許された。
香澄は久しぶりにスーパーで食品を買い込み、タクシーを降りたのち、二人で近くで降りてゆったりと夜道を歩いた。
ずいぶんと明るくなってしまった街で、晴れた夜空に星を見つけることは出来なかった。
ふと、香澄は自分の左手の薬指にはめられた婚約指輪(仮)を月光に照らして眺めた。あの頃とサイズは変わっていないのか、少し力をいれると指から引き抜けてしまう。
(このまま、外すのも一つの方法かもしれないけれど――)
家事をしている時、かちかちと当たって邪魔に感じる時がある。香澄は装飾品をはめる習慣がずっとなかったから。
でも――。
それでも、外したことはなかった。
自分が、随分とこの指輪を気に入っていることに驚く。
晃光との時間は楽しいこともあった。見つめていると嗤い合った時間が蘇ってきて、若い子たちが指輪をはめている気持ちが今ならほんの少しだけ理解できた。
「ふふっ、香澄も大人になったんだなぁ」
「お父さんっ」
彼が見ていることを忘れていて、香澄は恥ずかしくなって手を下ろした。
そのあと数日、家で父とゆっくりと過ごした。
桜宮家から電話が入ったのは、週末近くのことだった。
「お元気にされているかしら」
淡々とした物言いの女性は、晃光の母親だった。
彼女は「別れろ」とは言わなかったが、堅苦しいことを延々と並べ、たびたび「相応しくないのよ」という言葉が出た。
「そうですね」
香澄はそう相槌を打った。彼の母は彼女の返答なんて求めていなくて、喋るだけで満足なのだ。
別れて、欲しいのだろう。
邪魔だから離れて欲しいのだ。
その決得のために、香澄がそう動きたくなるように数日おきに彼の母は電話を掛けてきた。香澄はその電話を受け取っては「はい」「そうですね」と聞いてあげた。
◇◇◇
結婚やらお見合いやらと言われても、香澄には遠い世界の話に思えた。ましてや男女の感情なんて、考える暇はなかったし――。
「恋をしてみたらいいんじゃないかな」
父の様子を訪ねてきた南原さんに相談すると、窮屈に考えるものではない、とアドバイスを受けた。
恋というのは、理屈や理論で通るものではないらしい。
「恋をする予定はないのですが……してみないと分からないものだ、ということは分かりました」
「おいおい、香澄ちゃん、相変わらず真面目だねぇ。おじさん心配になってきちゃったよ」
「心配はご無用ですよ。あっ、お父さんにあまりおつまみはあげないようにね。晩御飯で取る塩分を考えると、オーバーしてしまうわ」
「お母さんに似てしっかり者になったなあ」
「ええぇ、酒は飲んでないし、もう少し南原と食べたいんだが……」
「だめです」
香澄は少しだけ心が軽くなって、そう父達に笑い返した。
退院してしばらく、晃光から音沙汰はなかった。
父の退院の日に祝いの言葉をもらったきりだったが、寂しくはなかった。父との二人きりの生活を楽しむことが出来た。
(――寂しい、なんて。まるで私が特別に想っているみたいではないの)
そんな関係ではない。二人は、たまたま――いや、彼がお見合いで、妙なことに、自己紹介を見ただけで婚約を望んでしまったせいだった。