婚約指輪
「君がものすごく人見知りなのは、この数カ月でよくわかった」
「……はあ」
ものすごく人見知り、で落ち着いた彼がすごいなと思った。
香澄は確かに人見知りはあるけれど、気が緩められないのはデートをしている相手が晃光だからであり、彼と移動している間は女性たちの怨念がこもった視線が怖くて俯いているのだ。
「でもね、誰にも盗られたくないんだよ。だから、僕と正式に婚約してくれないか」
その言葉に、香澄は心臓がぎゅっと縮まった。
現在は、お見合いの席で『ひとまず婚約さしましょう』と桜宮家が了承し、交際している状況だった。正式な婚約ではない。
「君が僕を知って納得してくれるまで、結婚は待つから」
「で、ですが……」
それでも香澄がうろたえると、晃光は眉を下げてはじめて弱気な笑みを浮かべた。
「君との未来が欲しいんだ」
「未来……?」
「そう。君の隣に、僕がいる未来。いつの日かわからない未来の君の横には、僕がいて欲しいと思っている」
晃光がどうしてもというので、香澄は彼からピンクゴールドの婚約指輪を左薬指にはめさせた。
それは、高価なものではなかった。
(あっ……私のことを考えて?)
香澄はその指輪を見て、自分が『高い贈り物なども困ります……』と言っていた、初めてのデートを思い出した。
「この指輪は仮だ。気が早いと思うが、今日、君と僕は婚約者なんだというお揃いの指輪を用意した。両親は僕が会社にどれだけ貢献しているのか知っているから、僕の意思を無視しない――君が了承してくれて、もし結婚が決まったらきちんとした婚約指輪を贈らせて欲しい」
繊細で壊れやすい生き物に触れるように、晃光の動作はいつも慎重だった。香澄にそっと指輪をはめたあとも、まるで香澄の指が壊れてしまわないようにと見守り、息をつめてそおっと距離を離していった。
香澄は思わず笑った。
「私は割れ物ではないわよ」
怪訝そうに見てきた晃光にそう教えてやると、彼が目の下を少し赤くして楽しそうに笑った。
「そしてこれが、僕の指輪だ。同じななつ星の柄、一目でお揃いだと分かるだろう?」
彼は自分の分の指輪を取り出して、自身の左手の薬指にやった。手を上げて、香澄のものと見比べさせる。
「晃光さん……」
「きちんとした婚約指輪を贈るその時には、高い物だとか言わないでくれるね?」
茶化すように笑い掛けられた。
その笑顔を見ていると、恋人ではない新鮮な関係がお互いの間に築かれているような気持ちが込み上げた。初めて、お互いとお互いの心が自然と繋がったような居心地の良さがある。
香澄はそのとき、ふと、未来の自分の片りんを見た気がした。
(――私たちは本来、本当だったら出会わないはずの二人だったのではないかしら)
偶然、お互いという出来事で線と線が混じり合っただけで、その先の未来は、交わることがなく続いている――。
そんな思いが、脳裏をかすめた。
きっと晃光の隣には、彼に相応しい別の女性が立つことだろう。
(そしてそれは、私ではない……)
他の女性に対する晃光の冷たい態度は、誰の目からも明らかなほど柔らかくなってきていた。道が分からないと尋ねてきた女性に一瞥をくれることもなくなり、ちょっと愛想らしきものを持って親切に教えるようになった。
それを、桜宮家は知って〝その時〟を待っているのではないだろうか。
見合いの日以来、桜宮家から音沙汰はない。
「――今はまだ、引き続き彼の婚約でも構いませんか? 私はまだ大学生ですし、婚約を正式にするかどうかのお返事はまだ……待っていてくれると助かります。その……考える時間が、欲しくて」
へたな言い訳をした。
香澄はやってくる別れの日を、静かに待ち続けることにした。
◇◇◇
二十一歳で短気大学を卒業すると、香澄は事務員として父の会社を手伝い始めた。
老眼がひどくなっていた母に代わり、事務机に座る毎日が続いた。
困ったことは、晃光のことを知っている女性たちが時々会社の前を通り「あれが桜宮さんの婚約者だって」と不満や嫌味を漏らしていくことだった。
そのたびに胸がきゅっと痛み、早く彼との別れなければと焦る。
何よりも、それを他の社員たちが耳にしたときの切なそうな顔が一層香澄の胸を締めつけた。
「香澄、お前は晃光さんのことが好きなのか?」
食卓で父にそう尋ねたられたとき、香澄は正直に答えた。
「わからないわ……」
初めは、晃光に対して怖いと思っていた。深く考えてみれば、その感情は、今では少し違ってきている。
けれど、恋を知らない自分がそう考えるのは、他の女性たちに対してひどく失礼なような気がした。
「でも私たちは、お互い生きる道が違うと思うのよ。お父さんの会社があるから、桜宮家も渋々私を認めただけで……ねぇ、好きと、愛することは違うの?」
困った顔をした父の隣から、母がすかさず口を挟んだ。
「そうね、違うわ。けれど、根本的には同じような感情があるのよ」
でもね、と母は注意深く続けた。
「家同士の結婚の場合、優先されるのは条件と欲の深さよ。『好き』は目移りするもので、そこに純粋な愛は求められないわ」
父は同意する風でもなく、悲しげに笑った。
父の顔が、いつまでも香澄の脳裏に焼き付いて離れなかった。
この頃から、父はたびたびそのような顔をすることが多くなった。
未来への不安と、この数年後に起こる悲しい出来事を悟っていたかのように、じっと香澄を見つめては言い掛けた言葉を飲みこんで口をつぐんでいた。
◇◇◇
香澄が二十二歳の誕生日を迎えた年の六月、母が急死した。
晃光はすぐ駆けつけてくれた。香澄はハンカチで顔を隠し、声を押し殺してぼろぼろと泣いていた。涙はいっこうに止まらず、晃光からの慰めの言葉の一つも聞き取ることが出来なかった。
母の心臓が急に止まってしまうなんて、香澄には考えられないことだった。
父は静かに涙を流し、出会えたことへの感謝と、短い別れの言葉をぼそぼそと遺体に告げた。その言葉を聞いて、晃光だけが顔色を険しくさせた。
「『あとで迎えに行くから』なんて言葉、縁起でもない」
晃光は低く呟きながらも、強い動揺を抑えきれないようだった。
「藤野さん、一度、病院で検査を受けてください」
半ば怒るように、晃光は強くそう言った。
通夜の準備もこれからだという病院の一室で、いったい何を言い出すんだと父や従業員は答えたが、晃光は引き下がらなかった。
「最近体調がよくないでしょう? 自分でも何か予兆しているはずだ、だから『迎えに行くから』と縁起でもないことが言えた。……一番最後に検査を受けたのはいつですか? ここ最近で、ずいぶんと痩せましたよね?」
父の疲れ切った顔に、ふっと不安の影が過ぎった。
そういえば最近、と思い当ったのは香澄だけではなく、社員たちもそうだった。
食の量は全く変わっていないのに、香澄の父はずいぶんと体重が落ちていた。もともと痩せ型ではあったが、頬がこけるほどのものではなかった。
「ははあ……よく見ているものだなぁ」
そう、南原さんが初めて感心した声を上げた。
晃光は冷静なまま首を横に振った。一つ一つの動作がさまになるのは、洗練された美しさが彼の容姿に完成されているからだろうか。
「友人に医者がいますから」
晃光は、真剣な声でそう答えた。