物語の終わりは(下)
少年は急いで彼女が下りた方の車両面へと移動して、座席の上に膝をつくと、窓枠に両手を置いて食い入るように車窓からの風景を見た。
青年と男も見つめる中、列車は重々しい腰を上げて流れ出す。
(待って、まだもう少しだけ)
唇を開きかけたとき、少年は、ぼんやりと白く浮かび上がった風景にはっと目を凝らした。
振りむいた女性の反対側から、駆けて来る一つの長い影があった。それは慌ただしくコンクリートを駆け、動き出す列車の前を通り過ぎる。
少年は、一瞬、時間が止まったようにも思えた。
一秒が長くなったように、目の前に流れる風景がスローで少年の眼前に迫った。
そこにいたのは、未来の自分だった。
逞しい大人へと成長を遂げた自分が、そこにはいた。
少年が窓枠にかけた手を握り締めたとき、列車は速度を上げ、風景は闇に飲み込まれて見えなくなった。
「望めば、手に届くものだよ」
落ち着いたアルトの声が聞こえ、少年は振り返った。
乗車してきた男が隣の車両から戻ってきて、くたびれたコートに掛かった雪を手で払っている。ひどく穏やかな顔をした男だった。刻まれた皺の一つ一つが柔和で、人が良さそうな丸い目元には見覚えがあった。
不意に思い出したのは、女性が語っていた『父親』だった。
その目元は、彼女に似通うものがあった。
「本当に? ……望めば、叶う?」
理性で考えるよりも早く、少年は今しがた掛けられた言葉の真意を男に尋ねた。
青年は、少年のことなどそっちのけで呆れたように男の背中を叩いた。
「全く、手間掛けさせるんじゃないよ」
「すみません」
男は苦笑して帽子を手に取ると、「ところで」と言って機関士をまじまじと見た。
「父さんは、どうして若作りで来たんですか? わかりませんでしたよ」
「ばっかやろっ、若かった頃の俺がハンサムだったことを、おめえに証明してやろうとしてだな――」
「母さんが、一番好きだった頃の姿をしているんでしょう? 僕のためではなくて、母さんのためなんだ」
青年は、図星が気に食わんとでもいうように唇をへの字に押し上げた。
中年の男が若い彼に対して「お父さん」と呼ぶ光景は妙だったが、少年は、この青年が、自分の息子を迎えるために夜行列車に乗っていたのだと悟った。
――時間も、場所も、ばらばらなところを走る不思議な列車。
(ああ、なら、すべて〝起こり得ること〟なんだ)
列車は、何事もなかったかのように走り出した。
男は少年の向かいに腰かけた。青年は向かい合う二人の間に立ったまま、おもむろに煙草を取り出す。
「父さん、車内は禁煙ではないのですか?」
「今日だけは俺が機長なの。ルールは俺が決める」
青年は言い切ったあと、若々しい顔に不似合いな、歳老いた男の怪訝そうな表情を浮かべて少年を見た。
「で、坊や。さっきの質問なんだけどよ、望むのならきっと叶うぜ? 夜行列車は、お前が願い望んだ場の、スタート地点へと導いてくれるだろう。けど、いいかい? 頑張るのはお前なんだ。奇跡だの運命だの、魔法だのをあてにしちゃあいけねえ。決めるのも進むのも、お前自身だ」
くわえ煙草に火もつけず、青年は唇の端を引き上げた。
「どうするよ」
「ぼ、僕は……」
急に回答を求められて、ついしどろもどろになった時だった。
男が咳払いを一つして、少年の注意を自分へと向けさせた。
「私の父、いや、ややこしくなりそうなので彼と言っておこうか。彼の言い方は少しきついかもしれないけど、でもね、強く望めば叶うものなんだよ」
微笑んだ男の表情は、ひどく優しげだった。
「望んでごらん、晃光くん」
「どうして、僕の名前を?」
「ふふっ、私は、人生のすべての時間を終えて、ここに戻ってきた身だからね。妻を攫うように愛の逃避行をして、飛び乗ったこの不思議な夜行列車に」
男は微笑んだ。
「僕はきっと、君のような息子を持てることを誇りに思うだろう。君たちを見届けることは出来ないけれど――先に旅立ってしまった私のかわりに、あの子のそばにいてあげておくれ」
叶うならば、と彼女の『父』だった人は、そう言った。
少年は、なぜだかはらはらと涙が出てきた。男が小さく息をついて、やれやれと腰を上げて、向かい側にいた彼のもとへと歩み寄ってきて抱きしめられた。
その時になってはじめて、彼は自分の身体が凍えきってしまっていることに気付いた。
理由もわからず、男の胸板に身を預けて震える手で男のコートを握りしめる。男のことを知らないのに、なぜか懐かしさが込み上げ、涙が溢れて止まらなかった。
「ああ、看取る瞬間に立ち会えなかった未来の君が泣いているんだね。責任感が強い子だと思ったよ。君は私がどうなってしまうのか、未来が分かっていたから、あんなに悲しい顔をしたのだよね」
彼は、男の言葉になんと答えていいのか分からなかった。
「お、おじさんは、死んじゃうの」
「うーん、私の世界の時間軸で言えば天寿を全うした。これから、妻が待つ場所まで、自分の親父と共に行くんだ――晃光くん、生きている間に、義父としてぞんぶんに君を愛してあげられなくて、ごめんね。君にとって家族は冷たかった、だからせめて私が愛してあげたかった。僕は二人を、本当の子どもとしてあの世に行ってもずっと愛しているよ」
少年は、男の胸の中で泣いた。こんな風に、父や母から愛されたかったと泣き叫んだ。
自分を愛してくれた婆様が恋しかった。
離れていく爺様の傍に、ずっといたかった。
そして――脳裏に焼き付いて離れない、未来の美しい風景。
少年は、あの未来が欲しいと強く思った。そして、女性の隣にいる、未来の自分を想像した。
憧れなのか恋なのか、今はわからない。けれど――再び彼女の顔を見ることができれば、また会えれば、そして大きくなるに従ってこの気持ちははっきりとするのだろう。
大雪が激しく車窓を叩いた。
途端に、白い吐息がかじかむ。
少年は、隣に腰かけた男のコートで暖を取りながら、その時を待っていた。
宙へと浮かび上がった列車が、氷のレールを駆け上がっていく。そして間もなく蒸気をめいいっぱい吐き出して――夜行列車は停車した。
「え~、夜行列車は目的地へと到着いたしました」
くたびれた煙草の先に紐つけないまま、青年が寒さも感じさせない表情でそう言いながらやってくる。
「到着した駅は、桜宮家別荘地二階駅ぃ。桜宮家別荘地二階、子供部屋駅に到着です~」
青年は、陽気なアナウンスを口元から奏で、けらけらと笑った。
少年は、立ち上がりざまに彼を睨みつけた。
「そんなでたらめな名前の駅なんて、あるもんか」
――けれど、実際にあったのだけれど。
青年は、実に愉快そうに笑った。少年も、希望が宿った目で可愛げもなく強気に笑い飛ばしていた。
(僕が大人になったのなら。ここから降りた彼女を抱き締められたのなら、その時にはすべて話そう。不思議な列車のこと、そして、君と再会したことを)
だからまた、君に会いに行く。
未来の時間で二人が一緒だったということは、どこかで、自分は必ず彼女に会えるはずだ。
(――その時には、絶対に間違えたりしない)
今よりもほんの少し若い彼女を、自分は決して他人の空似だと思うことなんてないはずだ。名前も聞けなかった彼女のことを、きっと、一瞬ですぐに分かるはず。
少年、桜宮晃光はそう思った。
なぜか、そんな自信が不思議と身体の奥底から湧き上がってきた。
「僕が望むのなら、頑張れば――亡くなる前の彼と、名前を知らない彼女に、きっと会える」
不思議な夜行列車が空へと旅立っていくのを、別荘の二階の窓から見送りながら、彼は希望に満ちた声でそう言った。
出会った時、晃光は二十八歳、香澄は二十歳。
――それはまだ香澄が生まれていない時代、意外にも大人びていただけでそうは見えなかった、晃光が七歳の時の話だった。
了
。