1-6
事の発端を思い返すと、それは工藤校長が読み上げた手紙から始まる。
手紙を書いた人物とは、安藤瑠璃だ。
手紙の始まりの文言は、こうだった。
――わたしは『魔人』です。
「……分からない。瑠璃さん、分からないよ。あの手紙に書かれていた『魔人』というのが、瑠璃さんなんだよね? なら、きみは『魔人』ということになる。けれど、きみは自分の正体が、『半魔人』だと言った。つまり――」
「ややこしい属性を抜きにしたのが、あの手紙というわけだよ、坊主。お嬢は『半魔人』なのだが、それを説明すると、それは、それでややこしくなる。それを分かりやすくした表現が、『魔人』なのだよ。実際、お嬢は『半魔人』なのだ。ある出来事がきっかけで、お嬢は人間ではない存在に、なってしまったのさ」
仁が助け船を出してくれたおかげで、ぼくは多少理解することができた。
けれど、その全貌は分からないままだ。
「いいや、分からない。そもそも、瑠璃さんは人間なんだ。突然、人間が、人間ではなくなるなんてこと、まずありえない。それに――」
突然、仁が、ぼくのスネを足で蹴ってきた。
ぼくは思わぬ痛みで、たまらず悲鳴を上げた。
「まあ待て、坊主。今から、お嬢が説明するとさ。ハエのようにうるさい貴様は、黙って聞いていろ」
仁から蹴られた箇所は、思った以上に、痛みが走った。
痛みに気を取られたせいで、仁の言葉を理解するのに、少々時間がかかった。
瑠璃さんを見ると、彼女は何か言いたそうに、うつむいていた。
その何かを言うため、一同の期待に応えるため、瑠璃さんは顔を上げた。
こうして、瑠璃さんは、『魔人』についての説明を始めた。
「わたしが『魔人』と接触したのは……四年前の冬、だったかな。当時、わたしは体調が優れなくて、昼休みの時間に、学校を早退することになったの。その日は、今季一番の寒波が押し寄せてきて、学校を出たときには、すでに大雪だったわ。学校を早退したわたしは、迎えに来てくれた仁の車に乗って、自宅に着くまで、ひと眠りしようと目を閉じたの。そしたら――」
「誰もいるはずのない後部座席から、少女の声がしたのさ」
なんと、仁が、横から口を挟んだ。
ぼくは仁をにらみつける。
「黙って聞いていろ、ではないのか?」
「何も事情を知らぬ、坊主はな。しばらく、貴様は、お口にチャックだ。だが、そんな貴様とは違い、わたしは当事者でな。当事者なのだから、そのときの状況を、説明する義務がある」
「なるほどね。――ごめん、瑠璃さん。話の続きを頼む」
ぼくは自分の席に戻りながら、瑠璃さんに話の先を促した、
けれど、瑠璃さんは、仁のほうをじっと見つめていて、話を続ける気は、なさそうだった。
やがて、瑠璃さんは、つまらなさそうな口振りで、「いいわ、仁。あなたが説明しなさい」と、仁に話の主導権を渡した。
仁は得意げに、サングラスをクイッと押し上げると、瑠璃さんの代わりに話し始めた。
「運転したままに加え、ルームミラー越しで、少女を見るという状況は、かなり危険だ。異質なことにも、少女には左目がなかった。そう、左目だけが空洞だったのだよ。だから、わたしは、あわてて車をとめ、すぐに後部座席のほうへ振り返った。そこで初めて、わたしは少女が、お嬢と同世代だということに気づいた。少女は、我々の動揺をあざ笑うかのように、自分が『魔人』なのだと名乗った。そして、彼女は、こうも言った。――自分は呪われた存在だ、とね」
のどが渇いたのか、仁は二本目の缶ビールを開けると、まるでジュースを飲むかのように、ビールをゴクゴクと飲み干した。
ぼくは固唾を呑んで、仁を見守る。
たとえ、仁が下品なゲップをしたとしても、ぼくは、仁をじっと見つめると決めていた。
なぜなら、ぼくは人知を超えた現象を、この耳で聞いているからだ。
それだから、胸が躍ってしまうのも、仕方がないではないか。
だって、これは人間の性なのだから。
ゴクゴクとビールを飲み、のどを潤した仁――彼は長いゲップを終えてから、先ほどの話に戻った。
「少女……あらため、『魔人』は、お嬢の名を呼ぶと、空洞になった左目を見ろ、と言ってきた。言われるがまま、お嬢は『魔人』の空洞の左目を見てしまった。その途端、お嬢は金切り声を上げた。どういうことかというと、これは術式だった。左目が見えない、そうお嬢は叫んだ。まさか、とわたしは、とっさに『魔人』のほうへ振り返ったが、そのまさかだった。案の定、空洞だった『魔人』の左目には、すっぽりと眼球が、はまっていたのだ。すぐにわたしは、その左目が、お嬢の左目なのだと気づいたが、それをどうこうするには、もはや手遅れだった。結局、我々は無力だった、というわけだな」
「じゃあ、瑠璃さんの左目って――」
「ああ、隻眼だ」
それを聞いた途端、ぼくは全身が粟立つのを覚えた。
この科学が発達した世の中、そのような怪奇現象は、存在するのだろうか。
いいや、存在するのだ。
この世界には、摩訶不思議な出来事が、まだまだ隠れ潜んでいる――。
先ほど、ぼくは胸が躍ってしまうと言ったが、それは前言撤回だ。
今、ぼくは未知の恐怖におびえていた。
ぼくは気分が落ち着くのを待ってから、瑠璃さんと仁のほうに目を向けた。
どうやら二人は、ぼくに聞こえないよう、小さな声で内緒話をしていた。
何を話しているのだろう。
二人に訊こうとした瞬間、二人は内緒話をやめてしまった。
なんてことだ、とぼくは瑠璃さんに軽蔑のまなざしを向け、彼女に無言の圧力をかける。
すると、瑠璃さんは、そっぽを向いてしまった。
すぐさま、ぼくは仁を横目で見る。
気味が悪いことに、仁は上機嫌そうに、ほほ笑んでいた。
「あえて、あんたに訊くが……監督、あんたらは、何を話していたんだ?」
「よりよい未来にするための会議さ。……なんだ、納得がいかないっていう顔だな。それ以上、訊いてみろ、坊主。貴様を――」
「分かったよ。訊かないから、話の続きをしてくれ」
謝罪のためか、仁は、ぼくに頭を下げた。
その後、仁は先ほどの話を続けた。
「『魔人』は、お嬢の失明した左目について、触れた。失明する代わり、その左目は、人の闇を視ることができ、それは『半魔人』の証なのだと、そう『魔人』は抜かした。こうして、『魔人』は消えていったとさ……めでたしめでたし」
「めでたくない」
「めでたくない」
ぼくと瑠璃さんの声が重なり、ぼくらは互いの顔を見合わせた。
瑠璃さんは咳払いをすると、それから、ほほ笑んだ。
「こういうことなんだ、鬼羅くん。わたしは『半魔人』。人間ではないの。でも、自分で自分をフォローするなら、わたしは『半人間』なのかな? それはさておき、鬼羅くん……きみは『魔人』に会ったこと、ある?」
「残念ながら、一度もないよ」
そっか、と瑠璃さんは残念とばかり、口をすぼませた。
やがて、瑠璃さんは「お手洗いに行ってくるね」と陽気な声を出し、席から立ち上がって、リビングから離れた。
きっと、瑠璃さんは、先ほどの内緒話が気まずかったのだ。
だから、瑠璃さんは、一時しのぎに、お手洗いと称して、この場から逃げたのだ。
それなら、どうして、内緒話なんてものをするのだろう?
その答えを探るため、ぼくは椅子に深く腰かけ、目を閉じ、考えてみることにした。
けれど、部外者であるぼくには、到底分かることのない話だということに気づき、ぼくは目を開け、考えるのをやめた。
モヤモヤとした気持ちを入れ替えるため、ぼくは庭に通じる掃き出し窓を見遣り、外の様子を窺った。
積乱雲の仕業だろう――外では、やや強い雨が降っていて、それらは窓をリズミカルにたたいていた。
ぼくは、わざとらしく渋面を作ると、緑茶が入った湯飲みを、両手で持ち上げた。
緑茶が、ゴクゴクと飲めるほど、ぬるくなったかどうか、ぼくは飲んで確認したのち、中身を一気に飲み干した。
「……苦い」
その緑茶の味は、現実世界と同じ味がした。