花筏7
あの夜から、母さんは変わった。
前の様に、黙り込んでいる事も、泣いている事もなくなった。
けれど、だからと言って、それ以前のあの優しかった母さんに戻ったわけでもなかった。
母さんは、勉強をしなさい、とだけ言いつづけた。勝也や良一と遊ぶ事も禁じられた。マンガやゲームも当然だめだった。僕は塾に通わされる事になった。毎日、ただ勉強だけをしていた。テストの点数がどれだけ良くなっても。もっと、もっと、と言い続けられた。
「もっと、もっと頑張らないと」
もっと、もっと、もっと、もっと、もっと。
父さんは、相変わらずあまり家には帰ってこなかった。たまに、帰ってきても不機嫌そうな顔をしていた。母さんや僕を殴って。暴れて。すぐに出て行った。
僕には、父さんが何のために帰ってくるのかわからなかった。
でも勉強を続けているうちに、僕はいろんな事がわかってくるようになった。
勉強を続けたおかげで、たくさん漢字も読めるようになったので、いろんな本を買ってきては勉強の合間にそれらを読むようになった。
母さんは、マンガを読む事は禁じていたけれど、その他の本には無頓着で、内容がどんなものであれ活字がならんでさえいれば何を言われる事もなかった。むしろ、本を読む事を喜んでいる風であった。母さんは本なんか読んだ事がなかったんだと思う。
活字が並んだ、所謂「本」の中に書かれている内容はマンガなんか比べ物にならないほど、ショッキングでエキサイティングだった。
僕は本の中でSEXや暴力や嘘や隠し事を覚えた。
それらが書かれた本は普通の書店で普通に買うことが出来たし、なんとか賞とやらを取ったり名作と呼ばれたりしていた為、それを読む事で誰かに咎められる事は無かった、いや咎められるどころか誉められる事さえあった。
「誠、ずいぶん難しそうな本読んでるねぇ」
「誠君は本当に本を読むのが好きだなぁ」
「本を読んでいろんな知識を得るのは素晴らしいことだぞ」
噴飯。
本に書かれている、愛や自由や夢や人生の機知や感慨や悲哀や慟哭に、興味はなかった。
でも、それらに興味がないのは僕だけじゃないと思う。
それが証拠に同じ話が本と言う形からドラマや映画に変わったとたんに18歳未満禁止になったり、あまりにも過激な内容になんやらかんやらと話題をさらったりする。
そういう事だと思う。
そして、それは本当に僕には都合の良い事だった。
ある夜、父さんが帰ってきて、いつもの様に母さんを殴り始めた。
実際、母さんの事なんかどうでもよかったし、父さんと母さんが殺し合いをしようがどうしようが僕には関係なかったけれど、あまりにも煩すぎた。
僕は自室をそっと抜け出すと、台所からフライパンを持ち出した。
母さんを殴っている父さんの後ろに近づいて、躊躇する事なくそれを後頭部に振り下ろした。
いい音がした。
父さんが倒れた。僕は父さんの顔を何度もフライパンで殴った。
殴った。
殴った。
けれど、力は加減した。
僕が人を殺したところで、たいした罪にならないであろう事はわかっていたけれど、それはそれで鬱陶しい事であきらかに得策ではなかった。
父さんが抵抗できなくなる程度に、痛めつければ良い。
父さんはぐったりして、それでも気を失う事もなくこちらを見ていた。
その目に浮かんだ色は恐怖。僕は勝利を確信した。
「今すぐ出て行け、二度と戻ってくんな!」
父さんは這うように家を出て行った。
それきりだった。