花筏15
Y県の海辺の桜。
ネットを使って調べてみたら、意外とたくさんあって、どこが彼の行っていた場所か特定することは出来ませんでした。仕方なく、あまり連絡を取りたくなかった彼の友人に連絡を取って確かめました。やはり彼はその場所がひどく気に入っていたらしく、その場所を知っている友人はすぐにみつかり、丁寧に教えてもらえました。
そうして、私はその海にいました。
ただ、その桜を見るためには船に乗る必要がありました。彼は自分で船を操舵できる人だったので、現地で釣り舟なりを借りて私を連れて行ってくれるつもりだったのだと思います。私は船に関する知識がまったくありません。頼みに頼みこんで、一軒の釣り宿が船を出してくれる事になりました。ただし、昼間は釣り客の予約でいっぱいなので、夜でもよければという条件でした。彼が昼の桜を見せるつもりだったのか、夜の桜だったのか、私にはわかりませんでしたが、他に手段をもたない私は一も二もなくその条件を受け入れました。
夜の海は思いの他、凪いでいました。
静かな海上を船は滑るように進みました。
やがて。
「あぁ、まぁだ今年の桜には早いようだなぁ。ほら、姉さん。見てみなさい。あれがここの桜だ」
そう言われて、見た桜は確かにまだまだ開ききっていませんでした。
満月に照らされて儚く光る僅かな桜色。
突然、風が吹きました。
突風。揺れる枝。
舞い降ちる。花びら。
桜。
視線。追う。桜。
散る。落ちる。
桜。落ちる。
海面。潮溜まり。揺れる。
花筏。
月光。
揺れる。影。
風。
ざわめく。枝。
ざわめく。
音。
何か。
音。
声。
誰?
何?
揺れる。
花筏。
ざわめく。枝。
誰かの。影。
いつかの。
声。
ーー洋子。
私を呼ぶ声。聞き間違うことなんてありはしない。あの人の声。
「和弘!」
そう、この声は。和弘。私が聞き間違える事なんて、ありえない。あるはずがない。和弘の声。
ーー洋子。洋子。洋子。俺は、俺は。
「どうしたの?和弘、何があったの?どうしたの?そんなに悲しい声をして」
ーー洋子。あぁ、洋子。俺は、俺は、どうしてなんだろう?なんで、俺は殺されなきゃいけなかったんだ?
殺された?和弘?確かに、殺されたといえなくはないかもしれない。でも、あれは。和弘。あれは事故でしょ?
「殺された?和弘。それは……」
ーー違うんだよ。洋子。お前が聞かされている本当の話は、本当の話なんかじゃないんだよ。
「どういうこと?本当のことって。何があったの?」
ーーあの日、確かに俺と田口は最初、楽しく呑んでた。そりゃ、俺に海の事を教えてくれたイントラと呑むのが楽しくないわけないじゃないか、それは、あの時お前に俺が死んだ時の話をしたやつらの言った通りなんだ。帰り道から、雲行きがおかしくなったってのも間違いじゃない。
ーーでも、そこから先は……。あの日。
揺れる桜。震える影。
目の前。映像。蘇る。映し出される。
あの日。あの時。起こった。
本当の事。
「俺、ホント田口さんに会えて、よかったぁ。田口さんと会えなかったら、今の俺はないですよ」
「何、言ってんだよ。カズ。大げさだよ」
「いや、マジっすよ。俺、田口さんの事、敬愛してるんですよ。だから、田口さんたちイントラの助けが少しでも出来ればって、思うんですよね」
あぁ、そういう事か、そこまで聞いて、私は理解する。
和弘。敬愛はまずいよ。和弘に悪気はないんだろうけど、敬愛って、そんな事、言われた方は……。
「おまえ、鬱陶しいよ。敬愛かよ。なんだよ。敬愛って。おまえ俺の事ばかにしてんのか?俺らの助けになりたい?思い上がるな」
田口の言い分は、もっともだと思います。でも、和弘には通じなかった事でしょう。なにせ、ああいう人ですから。
「思いあがる?どういう事ですか?」
「おまえが俺らの助けがしたい?あぁ、立派な志だよな。でも、実際どうなんだよ?おまえは一緒にいる女に助けられて、生活してるんんじゃないのか?親のすねかじってるのとなんら変わらねーじゃねーか。女のすねかじって、写真とって、俺らの助けになりたいです?敬愛してるからってか?」
田口の怒り。嘲笑。和弘に言葉はない。
それは、そうだろう。田口の言っている事に間違いはない。10代ではないのだから、生活というものを考えなければならない。
それでも。と、思いました。
「お前みたいのをヒモって言うんだろうな。いいご身分だな」
田口には、正論を言うという事の意味がわからなかったのでしょう。
酔っていたのでしょう。二人とも。
田口も普段だったらそんな事を口に出したりはしなかったと思います。和弘もいくらなんでも、本人を目の前にして敬愛などと言ったりしなかったと思います。この日は、何かが僅かに食い違ってしまっていたのかもしれません。和弘は久しぶりに昔のイントラに会うという事で舞い上がっていたし、田口は自分が教えた相手が写真を撮り、食べる事にさえ今は困っているとは言え、いずれそう遠くない将来に何がしかを成すであろう事を感じていて、それが面白くなかったのだと思います。そんな、食い違いだったのでしょう。
和弘が、ヒモと言われて、しかも和弘の言葉を借りれば敬愛していたインストラクタに。黙っているなんてありえない。それは、私の直感通りでした。
「いくら、田口さんでも、言っていい事と悪い事がありますよ」
田口は鼻で笑いました。
「陳腐だな」
後は、その後は。
田口に殴りかかる、和弘。
それをよけて嘲笑う田口。
更に熱くなる和弘。
殴りかかる。
避ける。
殴りかかる。
避ける。
そうしたやり取りがあって、田口は殴りかかる和弘を避けると、その背中を押しました。
とん。
それは突き落とすという言葉からは想像も出来ないくらい、とても優しい力加減でした。
いえ、押したように思えただけで、なぐりかかる和弘を避けた田口の手が偶然当たっただけかもしれません。
何れにせよ、バランスを崩した和弘はホームから落ちて、そこにやってきた列車に。
そういう事、でした。
ざわめく。桜。遠ざかる。
本当の事。
目の前。
和弘。影。
声。
ーーなぁ、洋子。これって、俺、殺されなきゃいけないことか?
和弘、それは、やっぱり事故かも知れない。でも、でも。
ーーねぇ。洋子。俺、死にたくなかったよ。おまえといろんな事したかった。もっともっと。俺、死ななきゃならなかったのかな?殺されなきゃいけなかったと、思う?
正直、和弘が死ぬ程のことをしたとは思えない。それに田口が和弘を殺したとも言い切れない気がする。
でも、でも。
ーーなぁ、俺、ホント悔しいんだよ。俺さぁ。俺。
田口にはわからなかった。田口は和弘を鬱陶しく思っていた。そして田口が鬱陶しく思っている部分をこそ愛しく思う者がいる事を。
確かに、和弘には相手を閉口させる部分があったと思います。でも、それを押し広げて、和弘と私の関係をヒモという言葉で括ることの傲慢さは許せません。
私の理論はめちゃくちゃかもしれない。でも、仕方がない。私は和弘の恋人で、本当に和弘の事が大好きなのだから。私はやっぱり、和弘の味方で、実際がどうであれ和弘が田口に殺されたと思っていて、悔しく思っているのなら、やっぱり、それは。
「和弘、そんなに田口に殺された事が悔しいの?」
ーー悔しいよ。苦しいよ。あんな事で殺されて、洋子ともヤれなくなっちゃったし、俺、本当に苦しい。
なんで、このタイミングでヤるとか言うかなぁ。私は苦笑まじりだけど、やっぱりそんな和弘が愛しいと思う。
「じゃ、私が田口、殺すよ。和弘の復讐。私にまかせておいて」
ーーマジで?マジで、洋子、田口に復讐してくれんの?
おいおい、女の子に復讐するって言われて喜んでんじゃないよ。と、思わないでもないケド、私も満更じゃありません。
ーーありがとう、洋子。大好きだよ。
うん。私も和弘。大好きだよ。
揺れる。船。花筏。
消える。影。和弘。ざわめき。
止まる。風。花吹雪。
満月。
雲。流れる。翳る。月明かり。
復讐。
姉さん。そろそろ戻っていいかね。雲行きも怪しくなってきた事だし。
船長さんの声。
姉さん?そろそろ。戻っても。
えぇ。そうですね。戻りましょう。
戻らなければ。