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うたかた  作者: 武鬼
8/14

勉強会

「たくみー。お前なんか最近付き合い悪くないかー?」


 そう言って缶のホットなおしるこをすすったのは淳一だった。


「そうか? 現にこうして昼飯を一緒に食ってるじゃないか」

「いやーそうじゃなくてさ。学校終わってからのことだよ。最近毎日用事あるみたいじゃん? 前はそんなことなかったのにさ」


 淳一の言うとおりだった。以前ならば、いつも放課後は淳一と遊んでいた。それが現在は新崎と一緒に過ごしている。彼女と出会ってからもうすぐ二週間ほどになるだろうか。今や親しい友人といっても差し支えないくらいには仲良くなっていると自負している。二週間だなんて短い時間かもしれないけれど、旧校舎の美術室で誰にも知られず、秘密の時間を共有するというのはそれだけで特別なのだ。


「巧くん。まさかとは思うけど女じゃないよね?」


 空から突然爆弾が降ってきた。いったん落ち着こう。いつもの軟派男の戯言だ。ここで変に反応すれば感づかれてしまう。淳一のいう女とは彼女彼氏の関係のことだ。恋人ということだ。またはそれに類似する関係のことだ。

 大丈夫だ。新崎とは良き友人としてやっている。ならばそれを伝えればいいだけの話じゃないか。答えは簡単だ。


「……それはない」


 完璧だ。これで納得するだろう。完全無欠の平静を装うことができた。これでこの話題は終わるはずだ。メンタリストでもない限り、見破ることはできまい。


「なんで答えるのちょっと遅れたの?」

「……へ?」

「いやなんかね。オレが女かどうか聞いた時一瞬だけ顔がこわばったように見えたんだ。声の調子もやけにかしこまった感じだったし。それにお前ちょっと左上の方を見てから答えたからさ。人間ってのは、過去のことを思い出す時は左上を見るらしいんだよ。てことは何かしら思い当たることがあって、その上で考えてから返答したんじゃないかって」


 メンタリストかよ。こいつこんなスゴかったっけ?

 いつのまにそんな技術を身に着けたんだよ。そんなことより何か答えないと。そうだ。おあつらえ向きなセリフがあるじゃないか。


「き、気のせいだろ」


 ちょっとつっかえてしまった。あきらかに不自然だ。動揺しているのがわかってしまう。見ろ、メンタリストが僕の顔を真顔で見つめている。万事休すか。説明しないとだめなのか。夢まぼろしの少女は、実在して。でも彼女はノットスーパーアグレッシブガールなんだ。そんな説明できるわけがない。というかしたくない。この先永遠に可愛そうなやつと思われることになる。


「そ。まあ別にいいけどさ。巧に彼女ができたってんなら、オレは友人としてうれしく思うぜ。まったく、モテるってのにいつまでたっても彼女を作らないから女の子に興味がないと思いはじめていたところだったよ」


 そんなこと思ってたのかよこいつは。勘違いが重なっていってる感は否めないが、ここは何も言わないでおこう。墓穴を掘りかねない。


「それはそうと巧。来週からテストが始まるわけだが。如何にして乗り切る、我が相棒よ」

「そういえばそうだったな」


 ホームルームの時に担任の幸田がそんなことを言っていた気がする。僕の成績はお世辞にも良いとは言い難い。とりあえず赤点を取らなければいいといったレベルだ。学校の授業にもたいして興味が持てないゆえの点数だ。それならばなぜ高校に進学したんだと言われても仕方がないかもしれないけれど、要は世間体だ。現代社会において中卒の立場はあまり良いとはいえない。せめて高校だけはでておけと中学の教師がよく口にしていたものだ。実際そのとおりだ。中卒のぺーぺーを雇おうだなんて酔狂な会社はそうそうない。せめて高卒、さらに望むのであれば専門卒や大卒だろう。中卒が一般の企業に普通に就職するには、世間はかなり厳しいのだ。


 だから僕は高校に進学した。きっとまわりにもそういった連中は多いはずだ。三年間勉強をするだけである程度世間から認められるのだから、易いものだ。しかし、それは卒業できればの話だ。別に無理難題というわけではない。国家試験とかに比べれば、わけないはずだ。それでもそれをパスするにはやらなければならないことがある。結果を示さなければならない。私はこの学校を卒業するに値する人間ですと。

 まあたとえだめだったとしても、お優しい先生方は何かしらの救済措置を用意してくれているのだ。でも、世話にならないにこしたことはない。


「オレは姉貴から教えてもらうかなー。暗記系はいけるけど、数学とかは別物だからな」


 淳一の姉はふたつ上で、この学校の卒業生だ。一年の時に何度か会ったことがあるが、この軟派男と姉弟というのが信じられないくらいしっかりとした人だった。容姿端麗頭脳明晰――おまけに生徒会長まで務めていたのだ。まさに絵に描いたように優秀な人物だった。そんな人に勉強を教わるのだ。赤点なんて取れるはずがない。というよりなんだかんだで淳一の点数は平均よりも上だ。ただ単に不真面目なだけで、もしかしたらそこそこできるやつなのかもしれない。


「巧はどうすんの? 今回のテスト」

「うーん……」


 どうしたものか。いつもなんとか乗り切ってきたが今回のテストは正直言って苦戦しそうだ。僕には勉強を教えてくれるような先輩とかキョウダイはいない。一緒に勉強しようなんて言える人間はこのクラスで淳一くらいだ。別に友達がいないというわけではない。よくつるんでいるのが淳一というだけで、案外クラスメートとはしゃべる機会が多い。その大半が相手側からだけど。それでも立派にクラスメートをやっている。

 だからといって一緒に勉強しようなんて気分にはならない。そうなると淳一の姉に教わるという選択肢が出てくるが、さすがに気が引ける。彼女は大学生だ。きっと大学にも筆記試験はある。それに加えてレポートなんてものもあると聞く。淳一は姉弟だからいいだろうけど、弟の友人でしかない僕が、忙しいであろう彼女の厄介になるのは避けたい。そこまで僕は傲慢じゃないつもりだ。


 他には――。


 もういない、そう思いかけたところで、一人だけ思い浮かんだ人物がいた。その人物がどれだけ勉強ができるかわからないけれど、聞いてみる価値はあるだろう。


「あてはある」


 僕は淳一の問にそう答えた。




「というわけなんだ新崎先生」

「一体全体どういうわけなんだい染川くん? 開口一番にそんなことを言われて意図を汲み取れるほど、私は優秀じゃないぜ?」


 至極真っ当な意見だ。今ので伝わったら彼女にはエスパーの素質があることになる。僕はことのあらましを説明した。


「なるほどなるほど。テスト勉強を教えてほしいというわけだね」

「そういうことです」

「それで、テストはいつなんだい?」

「来週の月曜からです」

「もうほとんど時間がないじゃないか」

「そうなんですよ」

「日頃勉強は?」

「やってないです」


 新崎は「やれやれまったく」といった調子で呆れたように首を振った。今日は月曜日、テストまで残り一週間。彼女的にはもっとはやく行動すべきだったのではないか、と言いたいのだろう。それともテスト期間ギリギリまで何もしていなかったことか、もしくはその両方。


「染川くん。日々復習をしていれば、テスト前になって慌てることなんてないんだぜ? まったくもって愚か者だよ君は」


 まさしくその通りだ。ぐうの音も出ない。今の僕の状態は、やりたくないことや面倒なことを先送りにした結果なのだ。それでも大抵の人が教師にテスト期間を告げられてから、さあどうするかとなるのが一般的、だと思う、たぶんきっと。少なくとも僕と淳一はそうだった。


「しかしまあ頼まれてしまったのだから手伝うことに関してはやぶさかではないのだぜ?」

「助かるよ新崎」

「私が面倒を見るからには、君を学年トップクラスの成績にしてあげようじゃないか」


 新崎は空を仰ぐように手を一杯に広げてそう言った。


「いや、赤点を取らない程度でいいよ」

「何を言ってるんだい? 目標と志は高く持つものだよ?」


 確かに高いにこしたことはないのかもしれないけれど、身の丈にあった目標設定は重要だ。自分の実力を見誤れば、きっと失敗する。今の僕には赤点回避くらいがちょうどいい。


「さてさて。時間は限られているんだ。さっそく始めようじゃないか。科目はなんだい?」

「まずは数学で」


 僕と新崎は机と椅子を用意し、向かい合って座った。次いで数学の教科書とノートを取り出す。テスト範囲を告げると新崎はパラパラと教科書をめくった。


「うん。これくらいなら簡単に教えられそうだ」

「簡単、ね」

「数学は公式というものがあるじゃないか。それを理解すればあとは数字を当てはめて計算するだけ、簡単だろう?」


 それができれば苦労しないんだよな。数学は高校に上がってから一気に難解になった。文字と数字が入れ乱れるそのさまはまさに暗号。考えるだけで頭から煙が出てしまいそうだ。一度苦手意識を持ってしまうと頭が考えるのをやめてしまう。それで余計に沼にハマることになるのだろう。

 わかっていても簡単には克服できない。こんな計算、社会に出てから役に立つのだろうかと疑問に思ってしまう。数学に関わる分野や複雑な計算が必要な業界を目指すのであれば、きっと役に立つのだろう。しかし、一般的な仕事――たとえば事務仕事とか――に就くのであれば、四則演算や分数、平均値、正負、ついでに文字式あたりができればいいような気もする。

 だからこんな勉強――。


「将来役に立たない」

「……え?」


 僕の心の声と新崎の声が重なった。驚いた僕は口から間の抜けた声こぼす。それを見て新崎は、僕の目を見ながらイタズラっぽい笑みを浮かべた。


「いやなに。君がそんなことを考えていそうな顔をしているなと思っただけだよ」


 もしかしたら彼女はエスパーなのかもしれない。


「まあそう思う気持ちはあるよ。数学の公式、国語の古文、社会の何百年も前の歴史、物理の法則、英語のなんたら分詞――普通に生きるのなら必須知識じゃない。そりゃああれば多少は便利かもしれないけれど、それで将来の道が左右されるとは思えないんだ」

「ふむふむ。君の言う普通がどういうものかによるけれど、専門的な授業でもない限りは使わない知識は多いかもしれないね」

「だろ?」

「でもさ。私は勉強、したほうがいいと思うよ」

「……理由を聞いてもいいか?」

「これは私見なんだけどね。勉強は赤点を回避するためにするわけでも、順位を競うためにするわけでもない。自慢するためでも賢くなるためでもない。勉強は将来の選択肢を広げるためにするものだと私は思う」

「将来の選択肢?」

「君は将来の道が左右されるとは思えないと言ったけれど、それはそういう道に進むならという話だ。タクシーの運転手は国語の評論文を理解していなくてもいい。スーパーの店員は数学の高次方程式を知らなくても勤まる。建築士はクーロンの法則を覚えている必要はない。電気技師は取引相手が外国人でもない限り流暢な英語を話せなくても仕事に支障はない。外科医は徳川将軍家全員の名前を言えなくても患者の命を救える。でももしそれらの分野の知識を実用レベルで習得していたら、そっちの業界へ進むという選択肢もあったとは思わないかい?」

「ふむ……なるほど」


 確かに一理ある。多くの知識があればそれだけ多くの分野に手を伸ばすことができる。勉強とは将来の自分への投資。社会人になる時に、自分が望むよりよい道を選択するための手段。将来の自分をイメージして必要な知識を吸収し、使う技術を習得する。高い給金や充実したプライベートは、学生時代にした努力の賜物ということか。

 そう考えるならば多少は勉強に対するモチベーションも上がるかもしれない。将来のことを思うのならば。将来……将来か。僕は、将来どんな仕事をしたいのだろうか。今まで意識したことはなかったからな。


 なにか――見つけないとな。


「さてと。とりあえず一通りやろうか。わからないところがあったらその都度言ってくれたまえ」


 彼女は範囲の頭のページを開いた。僕もノートを開く。気持ちを切り替えよう。将来のことも大切だが今はとりあえず赤点を回避しなければならないのだ。


「それじゃあ始めようか。まず――」


 新崎は教えるのがとてもうまかった。教師が解説していた暗号がウソのように頭の中にすんなりと入ってくる。これならば赤点回避どころか平均点を上回ることも夢ではないかもしれない。

 ふとノートから目を離し、顔を上げると新崎の顔があった。彼女は机の上に教科書を置き、左の手で頬付きをしている。長く真っ黒な髪、雪のように白い肌、見ていると吸い込まれてしまいそうになる黒い瞳。不思議で神秘的でキレイで、そして――どこか儚げな印象を与える少女。

 夢の中で彼女と出会い、夢と同じ場所で再会した少女。再会と言っても一方的なものだ。それでもその出会いは衝撃的で、運命めいたものさえ感じる。運命の人とかそんなロマンチックなことを言うつもりはないけれど、これはただの縁ではない気がした。不思議で、どこか特別で。なんて表現すればいいかわからない。

 でも、“たまたま出会った”というには奇跡的な出会いだ。これが物語ならばきっと、第一話を飾るであろうシーンだ。そんな非日常的なドラマがあってもいいような気がした。


「どうしたんだい? 私の顔なんかじっと見つめて」


 突然――そう、あまりにも突然だ。新崎が教科書に目を落としながらそう言ったのだ。


「な、なんのことだろうな。僕は今もこしてきちんと一時も目を離さずノートを見ているよ」


 ああ、見ているとも。穴が空くほどに――視線をそらすために。


「とぼけたって無駄さ。さっきからずっと情熱的な視線を私に送っていたことは気付いているんだ。証拠もある。証人もいる。なんだったら法廷で会ってもかまわないんだぜ?」


 意地悪そうに彼女が笑う。


「それだけはやめてくれ。そんなことをされれば僕の犯した過ちが傍聴席に来るであろう親戚やクラスメートにさらされてしまう。特に絶対来るであろう悪友に一生いじられ続けることになる。そんな辱めを受けられるほど、僕の心は強くできていないんだ」

「年頃の男子が年頃の女子に興味を持つことはなんら不思議な事ではないよ。とゆうか、言ってくれればいつでもいつまでも、私の顔を見つめてもいてかまわないのだけれど。さあ遠慮は無用だ。私の顔を見るといい見続けるといい。じっくりねっとりと。心ゆくまで堪能してくれたまえ」


 彼女はまた意地悪そうに笑った。


「新崎」


 僕は神妙な顔で、真剣な声音で彼女の名前を読んだ。


「なんだい染川くん」


 ニヤニヤと笑いながら彼女が聞いた。


「勉強をしよう」

「どうしてだい?」

「僕は新崎に勉強を教えてもらうためにここに来たからだ」

「そのわりには、別のことに熱中していたみたいだね」

「若気の至りというかなんというか。とにかく僕は、本来の目的を思い出すことができた。そして今、無性にその目的を遂行したいという衝動がある。きっとこれは神様の啓示的な何かで、それに従うことが何よりの善行だと僕は思うんだ」

「嘘を言っちゃいけないよ」

「正直に言うととても恥ずかしいです」


 気づかれていない時に横顔を見るとかそれくらいならきっとできる。現にそれに近いことをしていた。でも、真正面から見つめ合うのであれば話は別だ。ミッション・インポッシブル――女性の扱いに慣れた特殊工作員でなければ不可能だ。


「それならなおさらだ。悪い行いにはそれに相応しいバツが必要なものだ」


 だというのに彼女は、任務遂行を強要した。


「さあさあ染川くん。見つめ合おうじゃないか。これは君が望んだことなのだから」


 こうなってはしかたがない。腹を決めようじゃないか。僕だって男だ。据え膳食わぬは男の恥という。なんだか使い方を間違えている気がするけれど、とにかく覚悟を決めよう。

 僕は正面から彼女の顔を見つめた。

 彼女も正面から僕の顔を見つめた。


「…………」

「…………」


 見つめた、お互いに。


「………………」

「………………」


 見つめた見つめた見つめた。


「……………………」

「……………………」


 みつめた――。

 バタリと僕は机に倒れ込んだ。


「勘弁してください」


 こうかは ばつぐんだ! そめかわたくみは たおれた!


「それじゃあちゃんと勉強するかい?」

「……はい」

「よろしい。じゃあ続きを始めよう」


 こうして僕は月曜日から金曜日までの五日間、放課後の時間を使って各教科のテスト範囲を勉強した。おかげでなんとか理解できるくらいにはなった。あとは土日で仕上げをすれば形にはなるだろう。新崎先生の授業が一段落ついたところで時間を確認――17時12分、そろそろ帰らないとだな。


「新崎」

「ああ、わかっているとも。いい時間なんだろう?」

「ああ。勉強教えてくれてありがとう。ほんとうに助かったよ」

「なあに君の頼みならお安い御用さ。土日もきちんと勉強するんだよ? 私がつきっきりで面倒を見たんだ。赤点なんか取ったら承知しないぜ?」

「任せてくれ。テストに関しては今回で初めて自信を持てそうなんだ。期待に応えてみせるよ」

「今回に限らず毎回しっかりと勉強してほしいものだけどね」

「……善処するよ。それじゃあ今日はこのへんで」

「また会いに来てくれると嬉しいよ。君と話すのはとても楽しいから」


 そう言うと新崎はいつものように笑った。だから僕は、いつものように「じゃあ、また」と返した。

 別れを告げ美術室から出る。老朽化した旧校舎を気遣いながら傷んだ廊下を進む。突き当りを左、しばらく直進して見えてきた階段で一階に下りる。そのまま昇降口から外へ。旧校舎と現校舎を繋ぐ道を歩くことおよそ10分、部活動に励んでいる生徒たちの声が遠くから聞こえてきた。僕は舗装された道から外れて茂みの中へ。姿勢を低くして移動し、そのまま体育館横にある倉庫の裏側まで来た。

 ここまでくればこちらのものだ。あとは学校の敷地と公道を区切るための申し訳程度に設置された柵を超えるだけだ。造作もない。軽くひとっ飛び。また今日も誰にも知られることなく学校の敷地から脱出できた。部活や委員会に所属していない僕は普通ならこの時間帯にいないことになっている。だからもし誰かに見つかるようなことになれば、旧校舎の秘密が露見することになりかねない。それを案じて最初はおっかなびっくりしていたが、慣れてしまえばたいしたことはない。今日もミッションコンプリートというわけだ。あとはただ普通に、堂々と帰宅するだけだ。


 歩くことおよそ30分、自宅に到着。時間を確認――17時50分、時間は問題ないな。それを確かめてから玄関の戸を開く。


「あら。おかえりなさい巧君」


 玄関で僕を出迎えたのは、家事全般をやってくれている家政婦の新井涼子(あらい りょうこ)さんだった。


「ただいま、かえりました」

「巧君。最近毎日門限ギリギリに帰ってくるけど、なにしてるの?」


 あいさつをしてそそくさと自室に向かおうとした僕を彼女は呼び止めた。


「別に……なにもしてないですよ」


 僕は体だけ彼女の方に向けて素っ気なく返答する。別にやましいことがあって隠そうとしているわけではない。家政婦である彼女に話す必要がないから言わないだけだ。


「それだったらなおさら早く帰ってこなきゃダメじゃない。まさか街をぶらついてるわけじゃないわよね? あなたは染川家の一人息子なんだからもっとしっかりしないと。素行のこととか門限のこととか旦那様から厳しくするように言われてるんだから。せっかくお父様が立派な方なんだからあなたもしゃんとするべきだと思わないの?」


 いつもの話が始まった。染川家の一人息子だから、立派な父がいるのだから。彼女は僕に注意をする時、いつもこの言葉を口にする。僕の親父は大企業の社長をしている。業績も右肩上がり、海外にも事業を展開している。親父は立派な人間として立派に務めを果たしている。そんな親父のことを多くの人が尊敬している。

 でもだからなんだというんだ。親父は親父で、僕は僕だ。それなのに誰も彼もが染川家の人間という一括で見る。父が立派なのだから息子もそうあるべきだと。散々聞かされた話だ。別に新井さんが悪いわけじゃない。彼女はただ勤めを果たしているだけだ。親父の言いつけを守り、僕を良い人間にするために説教をしているんだ。

 彼女はきっと悪くないのだろう。でも親父を担ぎ上げる人はとても苦手だ、嫌いと言ってもいい。親父を尊敬する人に非があるわけじゃない。彼ら彼女らは、知らないだけなのだから。


「……来週の水曜日には旦那様が海外から帰ってくるんだから、良い報告を――」

「もういいですか? テスト勉強しないとなんで」


 終わりの見えない新井さんの御高説を無理やり切り上げて自室に向かった。背後から呼び止める声があったけど無視した。部屋に入り、電気を付けずに扉を閉める。バッグを床に投げるように置いて、自分はベッドに仰向けに寝転がった。自然とため息がこぼれた。立派な人、尊敬できる人、人格者、敏腕社長。僕が生きてきた中で親父を讃える言葉を呆れるほど聞いた。

 世界を相手に商売をやってるくらいだ。それらの言葉はきっと本当のことなんだろう。でも僕にとってはただの――自分のことしか考えてないクソ親父だ。


「…………はあ」


 またため息がこぼれた。テスト勉強をしようと思っていたがとてもそんな気分じゃない。一度寝よう。今日の分の勉強はそれからでいい。目を閉じるとすぐに、僕の意識は眠りの中に落ちていった。






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