もしもの話
「もしも明日人類が滅ぶとしたら、君は最後の一日をどう過ごす?」
手を後ろに組んで室内をうろうろしている新崎の口から、そんな突飛な問がこぼれ落ちたことで本日の議題が決定された。
人類滅亡――そう言われて真っ先に思い浮かぶのがノストラダムスの大予言ではないだろうか。
『1999年7の月、空から恐怖の大王が下りてくる』
世間を震撼させたフレーズではあるが、当時のどれくらいの割合の人たちが信じていたかは僕にはわからない。そんなこと起きるわけないと冗談半分に聞き流していた人や滅ぶなら貯蓄をしても意味はないと散財した人など反応は様々だったかもしれない。僕はこの手のオカルト話は基本的に信じないタチだ。もし本当に明日で人類が滅ぶとしても何かしたいことがあるわけでも心残りがあるわけでもない。
だから僕は――。
「いつもどおり過ごすと思う」と答えた。
新崎は「なるほど」と一言だけ口にして、また室内をうろうろし始めた。せっかく話題を提供してくれたのに少しばかり素っ気ない答えだっただろうか。
もう少し考えたほうがよかったか?
好きなものを腹いっぱい食べるとか。自転車で目的地も決めずにひた走るとか。友人と一緒にうんとバカ騒ぎするとか。でもどれもガラじゃないか。そんなんだからあんな答えを口にしたのかもしれないな。
「新崎は――」
ふと僕の口から言葉がこぼれ落ちた。そうだ。彼女は、どんな答えを持っているんだろうか。彼女は最後の日に、なにを思うのだろうか。
「新崎は、どう過ごすんだ? 最後の一日を」
「うん? 私かい? うーん……そうだねー」
彼女は顔を少し上向きにして、右手の人差指で自分のあごをトントンと叩きながら室内を半周したところで足を止める。そこがちょうど白い布が敷かれた机の前だったので、彼女はそこに腰掛けて片膝を抱える。
「私は――絵を描くと思う」
鈴が転がったようなキレイな声がそう告げた。僕は彼女が描いた絵を思い出した。絵を見て初めて心が震えたあの瞬間を。
「前も言ったと思うけど、私は私の描いた絵で多くの人に感動を与えたいと思っている。だから絵を描いて、あらゆる方法を駆使してそれを保存する。人類が滅んだとしても星は回り、生命は生まれる。塵が積もり、街が地中に埋もれようともね。そんな遠い未来で、もしかしたら次の人類が生まれるかもしれない。その新しい人類が地中から私の絵を見つけるかもしれない。そして絵を見た人たちを感動させられたとしたら、それは素晴らしいことだとは思わないかい?」
そう言って彼女は笑った。いつもの笑顔とは違う、とても無邪気な笑顔で。
「……ああ。僕もそう思うよ」
彼女の笑顔を見て、自然と僕の顔も緩んだ。新崎は本当に絵を描くのが好きなんだろう。彼女の笑顔、弾んだ声、キラキラとした目。それが何よりの証拠だ。
彼女は自分の夢を画家だと語った。絵を描いて多くの人を感動させたいと。でも何かしらの事情があって、その道に進めずにいる。それを解決してあげたいと思うのは、おこがましいことだろうか。なんの事情も知らない人間にそんなことを言われても迷惑なだけかもしれない。余計なお世話かもしれない。
でも、それでも僕は――彼女の力になりたいと思った。
どうすればいいかはわからない。妙案があるわけでもない。思っていても行動することができない。それがとても歯がゆいと感じた。
「染川くん?」
「……え?」
いつの間にか近寄っていた新崎が僕の顔を覗き込んで名前を呼んだ。
「なんだかムツカシイ顔をしているようだけど?」
「あぁ……いや、なんでもないよ」
「本当に?」
「ああ、本当だ」
「そっ。ならよかった」
彼女は納得したというように笑うといつもの場所――白い布が敷かれた机――に腰掛けた。
「そうそう。もしもの話といえば、宝くじで一等が当たったらどうするというものがあるよね」
「ああ。あるな」
「もし君がジャンボ的なあの宝くじで一等を当てたら――そうだね、二億円を見事勝ち取ったらそのお金をどう使う?」
「二億……二億か……。そうだな、貯金するんじゃないか?」
「えぇ……それはとてもつまらない解答だよ染川くん。彩音お姉さんはがっかりだよぉ」
新崎は言葉の通りしんそこがっかりした様子で僕を非難した。というかあんたは誰目線なんだ彩音お姉さんよ。
だがつまらないというのは少しばかり心外だ。ここは僕がなぜ貯金という選択を選んだかしっかりと解説しなければならない。
「いいか新崎、よく聞くんだ。宝くじは一発当たれば人生が変わる代物だ。夢を買うなどと表現する人がいるくらいだからな。なんせ一等で数億円が手に入るんだ。一生遊んで暮らせると思う人も大勢いるだろう。仕事なんかやめてやるぜと会社に電話する人もいると思う。でも考えてみてほしい。今回想定している金額は二億円だ。これはサラリーマンが一生で稼ぐ金額と同じくらいだ。この金額は平均値ではない、中央値だ。つまりそれがどういうことかというと生涯収入が約二億円の層が一番多いということだ。仮にこの層の人が二億円を当てたとしよう。仕事をやめ、車や家を買い、日に数万数十万の豪遊をしたとしよう。二億なんてあっという間に底をついてしまう。結局そんな大金を得ても綿密な計画を練って使わなければならない。だが果たしていきなり億単位の大金が手に入った人間にそんなことができるだろうか? 今後数十年という長期に渡る計画を立て、そのとおりに金を使うなんてことが可能だろうか? 正直言って難しいと思う。加えて日々通帳から金が減っていくさまを見るのは結構なストレスになるはずだ。最初のうちはまだいいだろう。通帳を見ても残高が9ケタもあるのだから。だが浪費が重なりケタがひとつ減ったらどうだ? いよいよもって焦りがでてくるだろう。人間自分が何歳まで生きるかわからないんだ。人生の終わりが見えないというのに金の終わりが見え始めるんだ。気がおかしくなってしまうだろう。よっぽど計画的な人間ではない限りは労働を継続する必要があるんだ。じゃあ十億円とかなら大丈夫かって? それもどうかわからないんだ。年俸二億のスポーツ選手が引退後、たった数年で全財産を使い切って破産したなんて話があるんだ。大金は金銭の感覚と当人の人生を狂わせてしまうんだよ。その観点から見れば、僕の貯金するという行為がもっとも安全で現実的だとは思わないかい? 貯金以外の方法もある。たとえば不動産を購入して――」
「夢の話だというのに夢がないよ染川くん!! そして話がながーい!!」
僕が自分の身の潔白と貯金という解答の無謬性を証明していたところ、新崎が勢いよく立ち上がって声高そう叫んだのだ。突然のことに驚いた僕は、ぽかんと口を開けたまま、立ち上がった拍子にズレた机を整える新崎を見つめた。
「もしもの話! イフのお話をしているというのにまったく君は。生真面目なのか堅物なのか、とにかく困った人だよほんとうに。君はETでエリオット少年がこぐ自転車が空を飛び、そのシルエットが月と重なるあの名シーンで、自転車は空を飛ばないなんて無粋なセリフを吐いちゃうタイプの人なのかい?」
「い、いや……それは言わないと、思うが」
「そうだろう? そうだとも! フィクションや妄想にそれはありえないとツッコミを入れるのはナンセンスなのだよ。わかったかい染川少年?」
「あ、あぁ。わかったよ新崎女史」
僕はビシッと指された彼女の人差し指を見つめながら言葉を絞り出した。確かに少々無粋だったかもしれない。どうも僕は夢の話とかもしもの話とかそういったものが不得手なのかもしれない。カケラも考えたことがなかったからなのか。それともみるような夢を持ち合わせていないからなのか。どちらにせよこういった話では相手を楽しませるような解答は僕には難しいかもしれない。
「それじゃあさ――」
だから聞いてみることにした。彼女なら――新崎ならどうするのかって。
「新崎はもしも二億円当たったらどうするんだ?」
僕の問に、彼女は待っていましたと言わんばかりに嬉しげに。そして誇らしげに答えた。
「私は私のためのアトリエを建てるよ」
一分の迷いもなく、一瞬の逡巡もなく彼女はそう答えた。続く言葉は「そこでただひたすらに絵を描いて暮らしたい」だった。彼女の芸術には拙い感性の僕でさえ心を動かされた。彼女は素晴らしい才能とセンスと技術を持っている。そして絵を描くことに対する情熱と愛情も兼ね備えている。絵を描くために生まれてきたと言っても納得できるくらいだ。そんな彼女はやはり、絵のことを話す時はとても輝いている。ほんとうにキラキラと光っているように見える。そう感じるくらい彼女は楽しげに、嬉しげに絵のことを話すのだ。
「新崎は、ほんとうに絵を描くのが好きなんだな」
口にするつもりはなかった。でもポツリと口からこぼれ出てしまったのだ。そんな僕の言葉に彼女は満面の笑みに相応しい笑顔を浮かべて言った。「ああ。そうだとも」と。
そんな彼女を見て、心臓がドキリと大きくはねたような気がした。驚いた時にもドキリとすることはある。でもこれはまったく別物だ。こんな感覚は、初めてだ。
「おっと。話を振られたからついつい熱く語ってしまったけど、また絵の話をしてしまっているね。同じ話で退屈ではないかい?」
「そんなことはない。むしろ続けてほしいくらいだ。新崎が絵の話をしている時の表情は、とてもイキイキとしているからな。僕はそれを好ましく思うよ」
「そ、そうかい? ……照れることを言うじゃないか君は」
彼女は頬を少し赤くして、僕から視線をそらした。彼女の新しい一面を見れたのと同時にまたドキリと心臓が大きく鼓動した。その時にふと思った。宝くじの一等――二億円がもしも当たったら。その時は、その二億円を新崎の夢のために使おうと。それが僕のもしもの話の答えだ。新崎本人には少しばかり恥ずかしいから言わないでおくけど。
「ほ、ほら染川くん。なんだかんだでそろそろいい時間なんじゃないかい?」
照れ隠しのつもりなのか時間の確認を促す新崎。スマホを取り出し確認するとほんとうにいい時間だった。
「そうだな。それじゃあ今日はこのへんで」
「あ、ああ……うん。コホン……また会いに来てくれると嬉しいよ。君と話すのはとても楽しいから」
咳払いをひとつ、仕切り直すと新崎はいつものように笑った。だから僕は、いつものように「じゃあ、また」と返した。