写生
新崎彩音というミステリアスガールに出会った次の日。僕はいつもと同じ日常を過ごしていた。不思議な体験といえば確かにそのとおりで、非日常的な時間を過ごしたような気がした。だからといって繰り返される日々が変わるわけでもなく、待っているのはいつもと変わらない時間だ。まさしく夢まぼろしにようだといえる。でも昨日彼女と過ごした時間は確かに存在した。他愛のない話も別れ際に見たあの淋しそうな笑顔も確かにあったのだ。僕はそのことで頭がいっぱいになってしまった。
だからまた会いに来たのだ。
彼女に――新崎彩音に。
僕は旧校舎の美術室の戸を開けた。
そこにはあの彼女がいた。
長く真っ黒な髪、雪のように白い肌、見ていると吸い込まれてしまいそうになる黒い瞳。
少女は床まで垂れる白い布を敷いた机の上に座っている。
不思議な雰囲気をまとった少女。
不思議で神秘的でキレイで、そして――どこか儚げな印象を与える少女。
「おやおやこれはこれは。染川くんじゃないか。また来てくれるだなんて、嬉しい限りだよ」
そう言って彼女は微笑んだ。
「やあ新崎。また雑談でもしようじゃないか」
「名案だね。今日はどんな話をしようか。そうだ、少しだけ気になっていたのだけれど。どうして君は昨日こんなところにやってきたんだい?」
「美術の授業の準備を手伝わされたんだ。それでキャンバスが足りなかったからここまで取りに来たというわけ」
「ふむふむ。美術の授業か。キャンバスを使うということは絵を描いたんだろう? どんな絵を描いたんだい?」
「あー……えっと、人物画かな」
僕はそれとなくぼかしたように言った。それだけ言えば伝わるだろうと思ってのことだ。というより女の子の絵を、それも新崎の絵を描いていたなんて本人に言いたくない。
「それは男の人かい? それとも女の人?」
「……後者だ」
おや?
「それは小さな女の子かい? それとも少女? 大人の女性? お年寄り?」
「……少女、だね」
おやおや?
「どんな少女を描いたんだい?」
「……普通の少女だよ」
「特徴は? 髪が黒くて長いとか。色白だとか」
「うん、そうだね。髪が黒くて長い、色白だ」
なんだかすごく食いついてくるな。人物画のくだりで、長くて性別のあたりで別の話題にシフトしていくと思っていたんだけど。そこまで詳しく知りたいのだろうか。僕なんかが描く絵に興味があるということか。
「なるほどなるほど。こう考えると少しばかり自意識過剰というものかもしれないのだけど、ひょっとしてその黒くて長い髪の色白な少女は私だったりするのかな?」
「…………はえ?」
「特に理由はないのだけどね。そうであったら嬉しいなと思ったしだいなんだよ。こんなところで偶然会った女の子が気になってしまって美術の時間に描いてみた、なんてことがあってもいいんじゃないかなと思ったんだ」
「な、なにをおっしゃいまするか」
なんだその口調は染川巧よ。それじゃあそのとおりですと言ってるようなものじゃないか。まあそのとおりなんですけど。てゆうかなんでわかったの?
恥ずかしい。これは恥ずかしいぞ。なんだかわからないがとても恥ずかしいぞ。穴があったら入りたいとはきっとこんな心境なんだろう。
「年頃の男の子が女の子に思いを馳せるというのは珍しいことでもないよ。何も恥ずべきことではないさ。胸を張りたまえ染川くん」
「や、べつにそんなんじゃないし」
「そうなのかい? それは残念だ」
残念なのか。
「そうだ! せっかく絵の話題になったのだから、二人でお互いを描いてみようじゃないか。なあに、ここは美術室だ。道具はそこらへんのダンボールにでも入っているはずだ。どうかな染川くん?」
彼女は机から降りると室内を指し示すように両手をいっぱいに広げた。絵か。彼女の前で本人を描いてみせるというのは、些かこっ恥ずかしい気もするけれど。せっかくの提案だ。
「ああ。いいよ」
ここは受けるとしよう。新崎がどんな絵を描くのか少し気になるしな。
「それじゃあまずは染川くんから描きたまえ。君が望むならどんなポージングでもしてあげるよ。どんなセクシーなポーズでも君の意のままだ。なんだったら服を脱いでもやってもいいんだぜ?」
「は……ばっ――そういうのはいいから! 普通でいいよ普通で」
「なんだつまらない。君は少し男性的欲求に欠けているのではないかい?」
むしろ彼女の方に羞恥心とか道徳的な何かが欠けていると思うのは僕だけだろうか?
昨日会ったばかりの女子に服を脱いでセクシーなポーズをとってくれといえる胆力は僕にはない。いくらチャンスだったとしても、それと引き換えに人として大切な何かを失ってしまうような気がした。そんなことをしたら次会う時に顔を見る自信がない。
「まあいいさ。それでは無難にこんな感じでいいかな?」
新崎はそう言うといつもの白い布が敷かれた机に片膝を抱えるようにして座った。
「ああ、そんな感じで」
僕は道具を用意すると筆をとり描きはじめた。新崎はじーっと僕の方を見つめている。時々彼女と目が合う。その度に彼女は薄く笑った。
長く真っ黒な髪、雪のように白い肌、見ていると吸い込まれてしまいそうになる黒い瞳。
キレイで、触れると壊れてしまうのではないかと感じさせる儚さのようなもの。
神秘的な雰囲気と少年のような口調、あどけなさ。
今まで美人とか美少女とか、そういった人を見たことはあった。周囲の人が口を揃えてそういうように、僕もまたそうだと感じた。だけど好かれたい、話してみたいと思ったことは一度もなかった。しかし彼女は――新崎彩音は不思議な力があるように感じた。引き寄せられる、惹き寄せられるようなそんな魅力を感じていた。これはなんなのだろうか。これはどんな言葉で表せばいいのだろうか。
「筆が止まっているよ、染川くん」
「え……ああ」
新崎の呼びかけにどこかにいっていた意識が戻ってきた。
「どうしたんだい? じーっと私を見つめたまま固まっていたよ? 情熱的な視線を送られるのは嬉しいことだけど、今は絵を描く時間だ。目的を忘れてはいけないよ」
「あ、ああ……そうだな。ごめん」
そうだ。絵を描く時間だ。ガラにもなく魅入ってしまっていた。続けよう。気を取り直して筆を進めた。
「よし。完成だ」
「お疲れ様染川くん。それじゃあ見せてもらってもいいかな?」
「ああ。もちろん」
「どれどれ……ほほう」
新崎は驚いたように――どちらかというと思いもしなかったというような――声をもらした。
「君に絵の素養があるとは思わなかったよ」
「昔、少しだけ描いていたことがあったんだ。今はからきしだけど」
「それでこれだけ描けるのであれば素晴らしいじゃないか。まさに感服したというものだね」
「……ありがとう」
そこまで褒められるとなんだか照れくさいものがある。素直に嬉しいけど。
「それじゃあ次は私の番だね。さあ染川くん。椅子の背もたれの部分に片手で倒立して、両方の足にボールを乗せ、それを落とさないように空いた手でジャグリングでもしてくれたまえ。その様子を私が絵に描いてあげるから」
「そんなサーカス団員もビックリな曲芸ができるか!」
「はっはっはー。冗談だよ冗談」
そうでしょうね。たとえそんな芸当ができたとしても、それを絵として見せられたくはない。
「まあ普通でいいよ。てきとうに椅子にでも座ってくれたまえ」
言われずともそうするつもりだった。僕は普通に椅子に座って新崎と向かい合った。彼女はOKサインを出すと描き始めた。彼女の筆は一切の迷いもなく走り続ける。まるで淀みを知らない川のようだった。新崎は絵を描くことが好きなのかもしれないな。自信に満ち、過程を楽しみ、絵の完成という目標に向かって突き進んでいるように見えた。そのまっすぐさが少し、羨ましく思えた。
「さあ完成だ。見てくれ染川くん」
しばらくして新崎の絵が完成した。キャンバスを見るとそこには僕がいた。旧校舎の美術室、椅子に座る僕がいた。僕は感想を言うのが苦手だ。本の感想、ドラマの感想、映画の感想。それを述べるには僕の語彙力は少しばかり少ない。ましてや絵、芸術だ。批評家がいうような詩的で独創的な感想など言えない。それでも、だとしても彼女が描いた絵の感想は言える。飾る必要もない。気取る必要もない。純粋に心が感じた言葉を言えばいい。ただこの一言だけがあればいい。
「……すごい」
この一言に尽きる。それ以上の言葉はいらない。
「そうかい? それはなによりだ」
僕の拙い言葉に新崎は満足そうにうなずいた。
「私の夢は画家だったんだ。絵を描いて多くの人を感動させたいと思っている」
「だった? 諦めたのか?」
「諦めてはいないよ。言ったろ? 絵を描いて多くの人を感動させたいと思っているって。画家は今でも私の夢だ。ただ――ただ、手段がないというだけの話だよ」
僕には彼女の言う“手段がない”という言葉の意味がよくわからなかった。今の世の中、絵に関する学校は多く存在する。コンテストだってひらかれているはずだし、調べればいくらでもやり方はありそうなものだ。それでも“手段がない”というのは、家庭の事情とかそういった個人的なものが関係しているのだろうか。それならば僕は詮索しない。彼女自身のことを彼女自身の口から聞くまでは。
「さてと。この絵はこの教室にでも飾っておこうじゃないか。私たち二人の記念としよう」
新崎はふたつのキャンバスをそれぞれ木の支柱の上に置いて飾った。僕の描いた絵が彼女の芸術と並べられるの、はなんだか気が引けるけど“私たち二人の記念”というのであれば悪い気はしなかった。
「さて。そろそろいい時間なのではないかい染川くん?」
「もうそんな時間か?」
僕はスマホで時間を確認する。確かにいい時間だった。
「それじゃあ今日は帰るよ」
「また会いに来てくれると嬉しいよ。君と話すのはとても楽しいから」
そう言うと新崎は昨日と同じように笑った。だから僕は別れ際に「じゃあ、また」と返した。




