夢とまぼろし
「それで、旧校舎の美術室の中には美少女がいたというわけか。なるほどなるほど」
ところ変わって現校舎の美術室。僕は美術の時間に旧校舎であった出来事を淳一に話した。目をつむり、顎に手を当てながら僕の話したことを咀嚼している。やがて目を開けると僕の肩に手を置き、かわいそうなやつを見るような目で切り出した。
「なあ巧君よ。我が親友よ。オレはお前を信じてる。疑ってやりたくはない。だがなだけどな! それは……夢だと思うんだよなーオレは」
夢?
確かに夢を見ていたけれど、それは授業中の話だ。そのせいで僕は美術の準備を手伝うはめになり、旧校舎までキャンバスを取りに行かされた。遅れて登場した僕がクラスの大多数の人間の視線を集めたということをしっかりとはっきりと記憶している。だから夢ではない。確かに現実で起きたことのはずだ。
「……理由を聞いてもいいか?」
釈然としないまま淳一に理由を尋ねる。
「いいか巧。旧校舎の美術室には鍵がかかっていたわけだろ? 清水先生の言ったことが正しければ、何年も。その時点でその中に女の子がいるなんてありえないだろ?」
「言われてみればそうだな」
「いやーその女の子が窓から侵入するようなスーパーアグレッシブガールだったら話は別だけどさ。それはそれで行動理由が不明だ。お前が言う不思議で神秘的でキレイでどこか儚げな少女がオレの想像する人物像と一致するなら、その彼女はノットスーパーアグレッシブガールなわけだ。つまり、鍵がかかった部屋――密室、ミステリーというわけで、この世界が漫画とか小説とかのフィクションでもない限りありえないわけだ、オーケー?」
後半言ってることが意味不明だったけど、なんとなく言いたいことは伝わった。単純に前半言ったことが答えだ。何年も鍵がかかっていた部屋に女の子がいるはずがない。
「ま、他の可能性を模索するとなれば、まぼろし的なあれかね? 今はまだ6月だけどクソ暑い。その暑さにお前の頭がやられていもしない、ありもしないものを見た的な」
「まぼろし、ね」
「夢まぼろしの方が適切かもな。お前、居眠りしてる時に黒い髪がーとか少女がーとか言ってたし」
夢かまぼろし、またはその両方。居眠りで見た夢と暑さでやられた頭が織り成した存在しない少女。それが答えということだろうか。考えてみれば確かにそうだ。あの少女が着ていた制服はここの学校の制服じゃない。ここらであんな制服を起用している学校はない、はずだ。
となると別の町ということになるが、わざわざここの学校の――それも旧校舎の美術室にいる理由が不明だ。あらゆる可能性を模索しようともひとつの事実がそれを不可能にする。
鍵がかかっていた。
これだけで基本的に美術室内にいた謎の少女はいなかったことになる。正直な話、淳一に言われてからあまり自信がなかった。ただ単に夢を、まぼろしを見ていた。そんな気がしてきたからだ。単純な見間違い、記憶違い。そう思うことにしよう。そのほうが自然だ。だって、夢で会った少女と現実で再会するなんてことがあるわけがないのだから。
「ふーん。それが例の女の子?」
淳一が僕のキャンバスを覗き込む。
「ああ」
短く返事をしながら、自身が描いた黒い髪の少女を見つめた。
「ふむ。なかなかな女の子だな。これはA……いやSくらいには入るかもしれん」
この軟派男が何を言ってるのかわからないけれど、とてつもなく失礼なことを言っていることはわかる。
「なんで長袖? こんな暑い時期に」
「着ていたんだよ」
「へぇー。てか巧っ! お前絵うまいな!」
「そりゃどうも」
「なあ巧! 今度なんか奢るから二組の五十嵐さんの絵を描いてくれないか? エロいやつを! スゲェーエロいやつを!」
「おいバカ! そんなデカイ声で言うんじゃねぇよ」
見ろ、バカの活躍によりめでたくクラス中の視線を集めることができた。美術担当の清水も見ている、酷くかわいそうなもの見る目でだ。
「んで! 描いてくれんのか? 巧!」
「描かねぇよ」
「なんでだ!」
「なんでだじゃねぇよ! 描くかそんなもん」
「そんなもんとはなんだ! 五十嵐さんを馬鹿にしてんのか! あのナイスバディの五十嵐さんの魅力がわからんのかぁ! 女子にしては高い身長とお山のようなバストゥ! キュッとしたウエストゥがだなぁ!」
だめだ。なんか興奮してて話が通じない。あとエセネイティブな英語が微妙にうざい。しかたがないので僕は無視を決め込むことにした。無視した後も淳一は永遠と二組の五十嵐さんがいかに素晴らしいかを語り続けた。清水のお叱りを受け、ようやく収束する形となった。その後は何事もなく授業は終了した。僕は使った道具を片付け、美術室を出ようとしたところで清水に美術準備室に呼び出された。授業中の私語のことだろうか?
だとしたら僕だけ呼び出されるのはおかしい。不公平だ。どちらかというと風紀を乱していた淳一が呼び出されるべきだ。
「キャンバスを取りに行ってくれてありがとう。今日はとても助かったわ」
何事かと身構えていた僕は少しばかり拍子抜けした。お礼を言うだけだったのか。だったらここに呼び出す必要があったのだろうか。
「それと――」
やっぱりまだなんかあるよな。こっからが本題か。
「旧校舎の美術室で何かあった?」
何か――それを言われて思い当たることがあるとすれば、やはりあの制服姿の少女のことだ。だけどそれは夢とかまぼろしだったという結論に至った。淳一とそういうことだったと結論付けた。だから僕は――
「何もありませんでした」
と答えた。思えば、突然「何かあった」かと聞かれてすぐに「何もありませんでした」と答えるのは少しばかり不自然な気がした。普通ならば、「何かとは?」とか「というと?」とかその質問の意図を問いそうなものだ、と考えるのは些か熟慮に過ぎるだろうか。
「そう。何もなかったのね。それならそれでいいわ。呼び止めてごめんなさいね。もう行っていいわよ」
「はあ……」
その時の清水はとても不自然だった。意図がわからない。彼女の言う『何か』とは何だったのだろうか?
気になりはしたが、詮索はしない。そのせいで疑われて、僕が見た――夢で見たことを説明するのはなんだかとてもバカバカしく思えたからだ。
美術の時間の後は昼休みだ。僕は淳一と購買に向かい、テキトーなパンをふたつ買った。教室に戻る途中にある自販機でノートを借りる条件である飲み物を淳一に奢る。彼のチョイスは缶のホットなおしるこだ。こんなくそ暑い季節にその選択は正気の沙汰とは思えない。曰く、こんなくそ暑い季節だからいいんだよ。賛同できない考えだ。そもそも何故暑い季節におしるこが売られているんだ?
冬ならいざしらず、わざわざこの時期に売るようなものでもないだろう。それとも一定の需要があるからこの時期でも売られているのか?
今度、買ってみるか。そんなことを考え、自販機をあとにした。教室に着き、昼食を終えると淳一から国語のノートを借りる。
「なあ巧よ。昼休みだってのに勉強熱心だねぇ。まったくどうかしてるぜ。昼休みは昼の時間を休むために存在するってのによ」
「休み時間にやらないならいつやるんだ?」
「……家に帰ってから?」
「家ならやるのか?」
「やらないな」
即答だった。だけどその意見には同意だ。学校が終われば、後は自由な時間。僕と淳一は部活や委員会に所属していないから遊び放題というわけだ。ずっと遊んでいるわけにはさすがにいかないが、とにかく時間はある。学生、それも帰宅部の特権とも言えるその時間を使って、授業内容をノートに書き写すなんてことをするはずがない。
だからここで、この時間で終わらせる。それが最も効率的な時間の使い方だ。どうせ昼休みは淳一のバカ話を聞くだけで終わるのだから。
「だが巧。居眠りしなければこの時間を有効に使えたとは思わないか?」
「…………」
もっともな意見だ。まさに正論、ぐうの音も出ない。返す言葉もない。しかし、寝てしまったものはしょうがない。過ぎたことをネチネチ考えるくらいだったら手を動かすほうが有意義だ。
「せっかく人生勝ち組なんだからつまらんことに時間を割くのはもったいないぞー巧殿。オレだったらお前みたいな愚行は犯さないね」
「……お前には関係ないことだろ」
淳一が一瞬だけ素の顔を見せる。
「ま、それもそうだな。オレはただのお前の友人だ。ただの高校二年の染川巧のクラスメートだ」
淳一は取り繕うように、仕切り直すように笑ってみせた。そうだ。誰にも関係のないことだ。これは、僕自身の問題なのだから。
心のなかで誰にも聞こえない呟きをもらす。その後、僕は淳一のバカ話をバックグラウンドボイスとしてノートを写した。読み返す時に読めればそれでいい。そう思いながら進めた書き写しは、十分程度で終わった。