美術室の少女
チャイムが鳴ってからの15分の休み時間。ただ過ごすだけでは少しばかり長い。かといって何かをするには短いその時間は、大抵友人と駄弁ったり次の授業の準備をすることに使われる。まあそれが休み時間なわけなんだけど、今の僕にとっては休みではない。美術の授業の準備を手伝わなければならない。
不本意だ。だけど投げ出したら後で幸田に小言を言われるに決まっている。そっちのほうが鬱陶しいし面倒だ。
美術室前に到着。雑に戸を開く。中には誰もいない。チャイムが鳴ってすぐに教室を出たからクラスメートがいないのは当然として、美術担当の清水もいない。あるのは人数分の椅子と木の組み合わさった支柱――たぶんキャンバスを置くための物――があるだけだった。
そうなると一階の準備室だろうか。戸は開けっ放しにしてすぐ横の階段で一階へ。準備室の戸を開くと目的の人物がいた。一瞬キョトンとした顔を見せた初老の女性。
「何かご用事?」
中指でメガネの位置を直すような仕草をするとすました顔で聞いてきた。
「幸田、先生に準備を手伝えと言われたので」
「あら。あなたが教師の手伝いをするなんて珍しいこともあるものね。手伝えと言われても断るイメージだったわ」
僕だってそうしたい。
「それじゃあそこのキャンバスを持っていってちょうだい。人数分、40枚。それぞれの支柱に置いてくれると助かるわ。私は画材を運ぶからお願いね」
清水の視線の先にある4つの山。一度に一山くらいが限度か。10枚を抱えるとなると視界も塞がる。確かに運ぶのは大変だろうが、それならあいつが手伝えばいいだろうがあの筋肉ダルマめ。
内心で愚痴をこぼしながら階段を上がる。開けっ放しの美術室の戸が出迎える。一旦キャンバスを床に置き、それぞれの支柱にセットする。それを計4回行ったところでキャンバスが一枚足りないことに気付いた。ちょうどいいタイミングで画材を持った清水が美術室に入ってきた。
「先生。キャンバス、一枚足りないんですけど」
「あら本当に? ちょうど40枚あると思ってたんだけど、数え間違っていたみたいね。んー、悪いのだけれど、旧校舎にある美術室に取りに行ってもらえないかしら? そこならキャンバスの一枚や二枚あるはずだから。授業に遅れても遅刻扱いにはしないわ」
旧校舎――体育館の裏手にある。今は物置として使われているそこに行くには、外履きに履き替え、歩いて10分。そこまでしたくない。そんな義理はない。
「いやさすがにそれは――」
「おお! ちゃんと手伝ってたか」
僕が断ろうとした時に今一番会いたくない男の声が響いた。
「あら幸田先生。先生が生徒を寄こしてくれてとても助かってますよ」
「そうですかそうですか。いやーこんな居眠りばかりの不良少年でも人様の役に立とうとしてるわけですから立派なものですなー。はっはっは」
役に立とうとしているわけではなく、無理矢理役に立たされているだけなんだけど。
「実は私が数を数え間違えてしまってキャンバスが一枚足りないんですよ。そこで彼に旧校舎まで取りに行ってもらおうと思ってるところなんです」
最悪だ。幸田の前でそれを言ったら、取りに行けと言うに決まっている。
「そうなんですか。よし染川! 取りに行くんだ! 全力ダッシュで!」
まさか全力ダッシュのおまけ付きとは思いもしなかった。
「走って取りに行かなくてもいいですよ」
そうだ、そのとおりだ。太陽が職務真っ最中のこの時間にそんな自殺行為をする必要はない。
「何をおっしゃいますか清水先生! たらたらと歩いていては授業に間に合いません。ここは走って取りに行かせるべきです。日々の居眠りの精算をここでさせるべきなのです! そうだろう? 染川!」
私怨まるだしじゃないか。職権乱用だろそれ。口には出さない。その行為が意味を成さないことを僕は知っている。大人しく旧校舎に向かうのが最善だろう。ダッシュはしないけど。
「わかりましたよ。行けばいいんでしょ行けば」
「助かるわ。旧校舎の美術室は二階にあるわ。何年使っていないから鍵がかかってるはずよ。準備室から持っていって」
善は急げという。背に「全力ダッシュだ!」という暑苦しい声援を受けながら、僕は階段を下った。そして準備室から鍵を取り、旧校舎へと向う。もちろん歩いてだ。
まだ6月ではあったが、夏の日差しは猛威を振っていた。旧校舎に到着した僕の体は、じっとりと汗をかいていた。肌に張り付いたワイシャツが不快感を煽る。これならば走ったほうがよかったのかもしれない。いや、走ったらもっと汗をかいていただろうか。とにかくさっさと済ませてしまおう。仕事の報酬である冷房の効いた教室が僕を待っているのだから。
昇降口の古い戸に手をかける。立て付けが悪いのかうまく開かない。悪戦苦闘しながらもなんとか戸を開ける。旧校舎に入ると熱気のこもった生暖かい空気に歓迎された。嬉しくもないお出迎えだ。一秒も長居はしたくない。急ぐとしよう。確か二階って言ってたな。二階の――どこだ?
美術教師の清水からは二階としか言われていない。旧校舎は西棟と東棟に別れていて、本棟から伸びる通路で結ばれている。とりあえず東棟から行ってみよう。外履きのままなのはなんとなく気が引けたが、内履きの用意はない。加えて廊下はホコリまみれだ。ここには咎める人もいないし、別にいいか。僕は外履きのまま東棟へ。少し行くと階段が見えたのでそのまま二階に上がる。行き止まりまで行ってみたが、それらしい教室はなかった。仕方ないので西棟へ。
旧校舎というだけあって随分とボロい。整備されていないのかあちこちが傷んでいる。床なんかは下手をしたら抜けてしまいそうだ。ホコリが目立ち、クモの巣もある。
そして、どこか見覚えがある気がした。
この高校に入学して二年目になるけれど、旧校舎に来るのは初めてだった。そのはずだ。でも、やっぱり見覚えがある。ここを知っている。この廊下を通ったことがある気がする。つきあたりがあって、右に廊下が伸びている。そこに美術室が――
「……あった」
つきあたりを曲がったそこには美術室と書かれた札がある教室があった。記憶の中にある建物と旧校舎の間取りが一致していたことに僕は驚いた。偶然……だよな?
少しばかりの混乱を鎮めるために僕は深呼吸をした。そうだ、夢だ。夢で見たんだ。夢でこの廊下を歩いていた。唐突に思い出した。どこかもわからない木造の古い建物。つきあたりを曲がった先で見つけた美術室。夢と同じ。
ひとつ違うことがあるとすれば、美術室の戸には鍵がかかっているということだ。準備室から持ってきた鍵を使う。カチャリと小さくロックが外れる音がする。僕は美術室の戸に手をかける。
ゴクリと生ツバを飲み込んだ。緊張しているのだろうか。偶然の一致に高揚感に似たものを感じないと言ったら嘘になる。あれは夢だっただろ、と否定する自分もいる。もしもこの先も夢と同じだったとしたら、この中には制服姿の少女がいることになる。僕はゆっくりと戸を開いた。
そこには制服姿の少女がいた。
長く真っ黒な髪、雪のように白い肌、見ていると吸い込まれてしまいそうになる黒い瞳。
少女は床まで垂れる白い布を敷いた机の上に座っている。
不思議な雰囲気をまとった少女。
不思議で神秘的でキレイで、そして――どこか儚げな印象を与える少女。
「おや? こんなところに人が来るなんて珍しいこともあるものだね」
その声はキレイだった。鈴を転がすような声――なんて使い古された言葉かもしれないけれど、まさにその表現が当てはまるような澄んだキレイな声だった。
「久しぶりの来客だ。私はとても嬉しく思うよ」
そういうと少女は目を細めて微笑んだ。