星河祭
「巧! 星河祭のポスター描いてくれないか? 頼む!」
月曜日の学校――朝のあいさつの前にそう言って頭を下げたのは僕の友人もとい悪友であるところの佐藤淳一だった。話を聞くところによるとポスターを描いてくれる予定だった人が風邪を引いてしまい、作業ができなくなってしまったらしい。このままでは間に合わない。そこで僕のところに話が転がってきたというところだ。
絵のことなら美術部にでも頼めばいいと言ったのだけれど、彼らも彼らなりに忙しいらしく、絵がある程度描けて時間があるのが僕くらいだったらしい。確かに放課後は暇してるわけだが、星河祭のポスターを手がけるほどの画力も自信もない。
有名な祭りだけあって毎年かなり高いクオリティのポスターが仕上がっている。街の人たちもポスターを楽しみにしている。その分期待も大きい。僕なんかの絵ではきっと納得しないだろう。いつもだったらすぐ断る案件だが、淳一があまりにも必死にかつ真剣に頼むので断りづらい。
これは困った。どうしたものか。そう思っていたところ、星河祭のポスターを描くに相応しい画力の持ち主がいることを思い出した。
「僕の……友人にすごく絵がうまい人がいる。その人に聞いてみるよ」
「おおぉ! ほんとうかたくみー! 心の友よぉ! 感謝するぜ」
「まだやってくれると決まったわけじゃない。確約はできないからそっちでも一応代理を探しておいてくれ」
「オーケイ! それじゃあ絵について詳しく説明するぜ」
淳一は元気よく返事をすると絵について説明してくれた。説明を終えると星河祭の準備の指揮に戻っていった。
さてと。学校の時間中は僕も準備をしないとな。頼みに行くのは放課後だ。僕はぼちぼち準備を進めつつ放課後になるのを待ってから、旧校舎に向かった。西棟二階つきあたりを右に曲がった最奥にある美術室。
そこにいつもいる少女。
長く真っ黒な髪、雪のように白い肌、見ていると吸い込まれてしまいそうになる黒い瞳。
不思議な雰囲気をまとった少女。
不思議で神秘的でキレイで、そして――どこか儚げな印象を与える少女。
新崎彩音はそこにいた。
「やあ染川くん。また会えて嬉しいよ」
「やあ新崎。僕も会えて嬉しいよ。今日は新崎に頼み事があるんだ」
「なんだい? 染川くんの頼みだったらなんだって聞いてあげるよ」
「今日友人にこんな頼みをされたんだ――」
僕は星河祭のポスターの話を新崎にした。
「なるほどね。そのポスターを私に描いてほしいというわけだね」
「そういうことだ」
「なるほどなるほど……」
新崎なら即了承しそうなものだけど、今回は悩んでるようにみえる。彼女の夢が画家だというのならば、これはまたとないチャンスだと思う。何か事情があるのだろうか。
「本当に……私が描いてもいいのかい?」
「どうしてだ?」
「うん。なんというか、もっと相応しい人がいるんじゃないかなって思うんだ。私ではなくて、もっと他に」
「僕は新崎が描いてもいいと思うよ。新崎の絵は素晴らしい。きっと学校や街の人もそう思ってくれるはずだ」
現に僕は彼女の絵を見て感動した。生まれて初めて絵を見て感動したのだ。彼女にはその資格があるはずだ。
「そこまで言ってくれるのなら、やってみることにするよ」
「ありがとう新崎。助かるよ」
「それで? どんな絵を描けばいいんだい?」
「星河祭をイメージした星空と夏祭りの絵だ。細かいことは描き手に任せるって言ってたよ」
「少し時間をもらうよ」
「ああ。もちろん。土日が星河祭だから遅くても金曜くらいまでには完成させてほしい。時間は多くないけどできるか?」
「問題ないさ。任せてくれたまえ」
新崎はさっそく準備に取り掛かった。
「それじゃあ僕は、実行委員に報告してくるよ。報告が終わったらまた戻ってくるから」
「その時は、話し相手にでもなってくれるかい?」
「ああ。もちろんだとも」
僕は一旦新崎と別れ、ポスターについて淳一に報告した。そのあとすぐに新崎のもとに戻った。暑い季節に徒歩十分の距離を往復するのは大変だったが、新崎と話をできると思うとさほど苦ではなかった。彼女が絵を描く間、いつものように他愛にない会話をした。
月曜をいれて三日間、彼女は筆を走らせた。随分と悩んでいたようだけれど、それでも絵を描いている時の彼女は輝いてみえた。やがて絵は完成した。
その絵を見せてもらった時、やっぱり僕は「すごい」という感想しか出てこなかった。完成した絵を淳一のところに持っていった時、彼はとても驚いていた。いったいどんな芸術家と知り合いなんだ、とまで言われた。名前を告げたかったのだけれど、新崎たっての希望により匿名で、とのことだった。
これだけ素晴らしい絵だというのに、彼女は何故自分の名前を隠すのだろうか。もっと自信を持ってもいいじゃないか。画家の夢への第一歩になるかもしれないのに。僕はそのことを少し、残念に思った。
星河祭は土日に開催される。全国から人が集まる大規模な祭りというだけあって、街は大変な賑わいをみせた。一日目である土曜日は出し物の担当だったので、休憩時間に少しだけしか屋台をまわることができなかった。
二日目、完全にフリーだ。明るいうちは、淳一と屋台をまわった。なんだかんだで祭りを楽しんでいる自分がいた。そんなにはしゃぐことかと淳一に疑問を投げていた手前ではあるが、どうやら自分にも子供っぽいところが残っているらしい。ガラにもなくテンションが上がってしまった。楽しんだもん勝ちという淳一の言葉に大いに賛同することにした。
そして夜だ。淳一と一旦別れ、祖母が用意してくれた着物を手に旧校舎へと向かった。新崎と花火を見る。そういう約束だ。その際に屋台でいくつか食べ物を買っていった。せっかくの祭りだ。楽しみは多い方がいい。途中自販機が目に留まった。そこにあったのは、ホットなおしるこだ。以前淳一に奢ったもの。僕はなんとなくそれをふたつ買ってから旧校舎に向かった。
古くてボロい建物。木造であちこち傷んでいる。床なんかは下手をしたら抜けてしまいそうだ。ホコリが目立ち、クモの巣もある。西棟二階のつきあたりを右に。美術室の札がある教室。
戸を開くとそこには新崎がいた。
長く真っ黒な髪、雪のように白い肌、見ていると吸い込まれてしまいそうになる黒い瞳。
彼女は床まで垂れる白い布を敷いた机の上に座っていた。
不思議な雰囲気をまとった少女。
不思議で神秘的でキレイで、そして――どこか儚げな印象を与える少女。
「やあ染川くん。待っていたよ」
「やあ新崎。着物、持ってきたよ」
黒を基調とし、花をイメージした白い模様がはいっている。着物を渡すと彼女はさっそく着替え始めた。僕は慌てて背を向ける。彼女が着物を一人で着れるとは驚きだった。どこかで習ったのだろうか。それでも人前で突然着替え始めるのは勘弁してもらいたい。
背後からクスクスという笑い声と服のこすれる音が聞こえる。なんともいえない気持ちと胸の高まりを感じた。そして楽しみでもあった。呉服店の倅ではあるが、幼いころしか手伝いをしたことがなかった。
だから、誰かのために着物を用意するなんてことは初めてだった。きっと新崎なら似合うだろうな。早く彼女の着物姿を見てみたい。逸る気持ちを抑えて僕は待った。
「いいよ、染川くん」
どうやら着替え終わったようだ。僕は振り返った。
「――すごく似合ってるよ。キレイだ、新崎」
彼女の絵を見た時もそうであったが、やはり僕は感想を言うのがあまりうまくない。それでも、その時と同じように、飾る必要を感じなかった。キレイ――それだけでよかった。
「ありがとう染川くん。とても、嬉しいよ」
新崎は、今まで見せたことのないようなとびきりの笑顔を見せた。その笑顔に胸がドキッとした。そしてそれ以上に着物を着せられてよかったと思えた。だってこんなにも彼女が喜んでくれたのだから。
「そうだ新崎。屋台でいろいろ買ってきたんだ。二人で食べよう」
僕はビニール袋からいくつか食べ物を取り出した。
「どうして、おしるこなんだい?」
その中にあるおしるこを不思議に思ってか新崎が尋ねる。まあ確かに。このラインナップでおしるこは変だよな。
「前友人に力説されて。それを自販機を見つけた時にそれを思い出して、なんとなく買ったんだ」
「夏におしるこね。まあ私はかまわないよ。おしるこは好きだからね」
そう言い、彼女はおしるこをすすった。僕も倣う。温かくて甘い。やはり夏には合わない気がした。これは寒い冬でこそ真価を発揮する代物だろう。僕はおしるこを一旦置いておいて、たこ焼きに手を付けた。祭りの食べ物は総じて高い。それでも多くの人はそれを喜んで買う。雰囲気を楽しむとかそんな感じなんだろう。僕もその一人だ。夏の夜、祭りの活気を身に浴びながら、新崎と共に過ごす。それはとても楽しく、とても尊く、とても愛おしい時間だ。願うのならば、今この瞬間が一生続けばいいと思った。
ただ話し。
ただ笑い。
ただ同じ時間を共有する。
僕の人生の中でこれほどまでに充実して満たされた時間はなかった。
だから、それゆえ――。
突然空が煌めいた。遅れて重い音がやってくる。
「――キレイだね」
新崎が息を呑むようにそういった。打ち上げ花火――空を彩る大輪の花。花火なんてたいして興味がなかった僕だけれど、今はそれがとても特別に見えた。僕たちはしばし、無言で花火を見ていた。
「昔、君のお父さんに会ったことがあるんだ」
不意に新崎が話し始めた。親父と新崎に接点が?
親父は50歳を過ぎている。対して新崎は僕と同じくらいの年齢だ。
「その時、一緒に星河祭に行こうと誘われたんだ。でも私は事情があって、彼と星河祭に行けなかった。だからもしも、迷惑でなければ彼に伝えてほしいんだ。祭りに一緒に行けなくてごめんなさい。でも、誘ってくれてとても嬉しかった。いろいろとありがとうって」
「……わかった」
親父と新崎との間にどんな関係があるかはわからない。それでも伝えようと思った。絶賛喧嘩中ではあったけれど、これだけは伝えなければならないと思った。
「ありがとう染川くん。さてと、君はそろそろ戻りたまえ」
「え? どうして?」
「私と過ごす時間と同じように、君が友人やその他の人と過ごす時間も大切なものなんだよ。人生というのは長く、そして短い。だから多くの人に会い、多くのことを語るべきだ。君にはそうであってほしい」
意図することは掴めなかったけれど、彼女がそういうのであればそうしよう。
「また会いに来てくれると嬉しいよ。君と話すのはとても楽しいから」
僕は別れ際に「じゃあ、また」と返した。