第1話 暗雲
炬燵から出れない日々を過ごしている今日この頃。
【聖アイネスの紋章】の続編となる作品です。
「何ぼさっとしてんのよ、マルセロ」
僕を呼ぶ声に振り返る。
肩くらいまでの金色の髪に碧緑の目、どことなく幼さの残る顔立ちの女性騎士だ。
「ごめんセライラ、昨日ちょっと寝るのが遅かったんだ」
まったくもう、とため息をつきながら、彼女は僕の隣へ立つ。
大陸西部に位置する聖アイネス、僕たちはこの国でエーデリア特別遊撃隊という部隊に属する騎士だ。
精鋭部隊と言われる存在だけど、精鋭なのは五人のうち三人。僕とセライラは至って普通の騎士なのだ。
城のテラスからはアイネスの街並みが一望でき、規則正しく並んだその様子を眺めていると、いつの間にか時間が過ぎてしまっている。
その光景を見ながら、ゆったりと風を肌に感じる時間が、僕にはとても心地良いものだ。
「ほら、いつまで眺めてるの! そろそろ街の巡回に行くわよ!」
セライラに腕を掴まれ、僕はテラスから無理やり連れ出される。もう少しこの風景を眺めていたかった。
今日もまた変わらぬ一日が始まるのだ。
ベントリーでの戦闘からは既に半年もの時間が過ぎていた。
騎士学校の卒業式も行われ、街中には赴任前の休暇を謳歌する新兵の姿も見受けられる。
正直羨ましい光景だ。
僕とセライラなんか、騎士学校の卒業式を目前に訳も分からぬまま旅に連れて行かれ、訳も分からぬまま戦って生き延び、帰国したら精鋭部隊に配属された。
本当に訳が分からぬまま、ただ流されただけの一年だった。
街中を巡回していると、こちらに気付いた新兵たちが様々な反応を見せる。慌てて立ち上がり敬礼の姿勢をとる者、目を輝かせてこちらをちらちらと隠れ見る者、媚びへつらう者に憮然とした表情でこちらを眺める者。
【エーデリア】という部隊は特別な物なのだ。
だが、大陸の情勢に目立った動きが無い今、僕たちの主な任務は街中や国境付近の哨戒任務しかない。教皇直属の部隊として再編成された精鋭部隊という位置付けなのだけれど、やっていることは正規軍どころか、聖アイネスの各地区の住民で組織された自警団のものに近い。
そんな状態に加え、ぽっと出の新兵二人がエーデリアの一員となっているのだから、良くも悪くも様々な反応があるのは当然だろう。
「平和ね。良い事だわ」
並んで歩くセライラの言葉に、僕は軽く頷く。だけど、心のどこかでこれでいいのだろうかという思いがあるのもまた偽らざる本音だった。
夕刻を知らせる鐘の音が響くと、一日の仕事を終えた労働者たちが仕事終わりの一杯を求めて酒屋へと向かう。
それは僕たちも例外ではない。
「今日の特異事項は何かあるかな?」
「西通りの本屋に住みついてる猫が鳩捕まえてたぜ」
「ええっと……ベルノ通りのマルコの服屋に新しいドレスが並んでたかしら」
「南の街道と東の居住地、異常ありませんでした」
「マルセロ、セライラはお疲れ様。ライヴィスとランスリッド、僕が聞きたいのはそういうことじゃないんだけどね」
シルフィさんはこめかみの辺りを抑えながらワインを飲む。そんなシルフィさんの様子など眼中に無いのか、ライヴィスさんたちはエールを飲み下しながらローストチキンにかぶりついていた。
僕たちは労働者の集まる酒屋の一角で、豪快に飲む職人たちに囲まれながら今日一日の報告を行っていた。
本来ならば城内の大広間で、大層な御身分の御歴々と顔を合わせて、使用人の用意する上等な食事を食べることもできる、むしろそうすべきだと言われているのだが、どうもエーデリアの面々はそんな場所での食事を好まないようで、どうしても避けられない時以外は街の飲み屋に繰り出している。
特に今日は僕たちのお気に入りの店だ。
元傭兵の主人が営んでおり、職人や狩人、商人などの護衛を生業としているような腕っ節の強い豪快な酒飲みが集う。聖アイネスの貴族や神官たちはこの店を品の無い下賤なものとして目の敵にしているが、ここほどの優良店は無い。味良し量良し値段良しなのだ。
最初の頃、セライラはこの店に来る度に嫌な顔を浮かべていたが、慣れてしまえばどうという事は無い。今では楽しそうに笑いながら他の客とも談笑している。
「おう、お嬢! 良い食べっぷりじゃねえか! 俺の奢りだ、飲め飲め!」
「いい匂い、ありがたく頂きます」
ランスリッドさんと店主が気付いて止めようとした時にはもう遅く、その後の酒場は荒れに荒れてしまうのだった。
― ― ― ― ―
「おはようマルセロ。……顔色悪いわよ?」
「……なんでセライラは平気なんだよ」
セライラは僕の言葉に不思議そうな顔をしているが、昨晩は大変だった。
彼女は酒を飲むと人が変わるのだ。誰彼構わずにしこたま酒を飲ませ、その悉くを潰してまわるのだ。店にいた客の殆どが床に倒れ伏し、閉店する頃には死屍累々の様相を呈していた。
当然僕も犠牲者の一人ではあるが、夜通し吐き通してなんとか今立ち上がることができている。
そんな僕の隣で、いつもと変わらぬ姿のセライラを見ると、果たして彼女は同じ人間なのだろうかという思いが浮かんでくる。非常に疑わしい。
不愉快な頭痛に辟易しながら今日の巡回路であるアイネス北側の貴族街へと向かう。
暫く歩くと、何やら前方に人だかりができており、アイネス軍の騎士と神官たちが慌ただしく行き来していた。
「教会の方ね。何かあったのかしら」
「マルセロ、セライラ。丁度いいところで会えた。一体何があった?」
「今来たばかりで何も。シルフィさんもみたいですね」
「ああ、とにかく行ってみよう」
人だかりを掻き分けて前に進む。
その集団を抜けると、目の前にはアイネス教の教会、荘厳な雰囲気を漂わせるその建物を下から上に見上げて行くと、教会の屋根の上に人影が見えた。
「なんてこと……!」
その人影はピクリとも動かない。
その身を大きく斬り裂かれ、光を失った目は何の感情も無く虚空を見つめている。
「神官殺しは大罪だ。これは……大事だぞ」
その日、僕たちは再び時代の大きな動きに飲み込まれようとしていた。
今作からの方は初めまして、前作からの方はこんにちは。
スローペースでの更新となるでしょうが、気長にお付き合い頂けると幸いです。