春
僕はゆっくりと目を開けて
だるそうに身体を起こした。
寝癖のついた髪をくしゃっとして
隣にいる君を見た。
静かにベッドから離れ
冷蔵庫から水の入ったペットボトルの蓋を開けた。
僕の背中に寄りかかってきた彼女の手は冷たかった。
「飲む?」
彼女から返事はなかった。
「そろそろ行くからさ」
僕は彼女を抱きしめて
そして、彼女の頬に手をそえて優しくキスをした。
彼女は言う。
「いかないで」
僕はこの言葉に弱い。
彼女の頭を撫でて
「行ってきます」
僕はそう言った。
彼女は下を向いたまま
返事はなかった。
彼女に出会ったのは高校2年の時
笑っているのに悲しそうに笑う彼女に
目が離せなかった。
そして、何故かは知らず
この人を一人にしてはいけないと思ってしまった。
彼女を守れるような男じゃないのに。
彼女は僕の一つ年上で
今は会社の受付の仕事をしている
小柄で透き通るような白い肌。ふわふわした長い茶髪。
僕が隣で歩いていいような...そんな人じゃなかった。
僕は彼女に好かれようと必死だった。
あの時の僕の事を彼女はこんな風に言うんだ。
「可愛い」
未熟な僕を選んでくれた君を
早く幸せにしなくちゃいけない
僕はただそれだけだった。
それだけだった。
僕は高校3年生になった。
背もあの頃よりも高くなった。
声も前より低くなった。
前髪長いかな
切った方がいいのかな
遥香さんに聞いてからにしよっと
昇降口は人ごみに溢れていた。
クラス発表のせいだろう
「高杉ー!お前も見ろよ!」
今、見に行ったって見えないだろう
「見といてよ」
そう言って僕はいつも場所に行く
体育館の裏の日陰
鞄を置いて頭をのせる
寝転がっては上を向く
空を見つめて目を閉じた
瞳を開けたら白い子猫が僕のお腹に乗っていた。
「よしよし、またな」
服についた葉を落として
スマホを見つめて自分のクラスを知る
後ろから教室に入ると沢山の視線を浴びる
何故か声をかけられる
見慣れない光景に驚きが隠せない
「高杉のモテキなんじゃね!?」
「そんなん俺興味ない」
「面白くない男だな」
それから何日も続くこの現象
今までこんな事なんかなかった
なんでかな
僕には全くわからない
「高杉、コンビニ寄って帰ろうぜ」
「うい」
「高杉!あれって田島先輩と...」
上田の言葉がつまる
その視線の先には遥香さんと知らない男
「帰ろう」
俺は視線を落とした
胸がちくりと痛んだ
見なかった事にしなくちゃ
忘れなくちゃ
焼き付いて離れない姿
手繋いでたな...
「いいのかよ」
「責めたくないんだよ」
家に帰りたくないな
どうしようか
「あのさ、お前の家に泊めてくんない?」
「いいけど...何日も泊まってたら田島先輩がさ...」
前にもこんな事はあったんだ
遥香さんが大事だから言わない
大事だから言えないんだ
関係が崩れる方が何よりも怖いから
彼女の隣に入れなくなった時の方がよっぽど辛いから
だけど、胸が痛むんだ。
「もしもし」
「慧ちゃん、帰ってこないの?寂しいよ」
「今日は..上田の家に」
「...やだ。帰ってきてよ」
今、彼女と話せない
顔見て笑えない
笑えないんだよ
「冷蔵庫に入ってるんで温めて食べて」
「慧ちゃん」
「どうしたの?」
「帰ってきて」
泣きそうな声でそんな事言われたら
僕はどうしていいのかわからくなる
僕の弱点は君
「わかった」
目頭が熱くなるのを感じた
少し寒い春。
家の前まで来た。
この決断でよかったかどうか僕はわからない。
「慧ちゃん!」
ドアを開けた瞬間彼女は僕の腕の中に来た
彼女は僕を強く抱きしめて
「おかえり」
と言うのだ
「ただいま」
僕は自分の部屋に行った
鞄をベッドに置くと
壁に寄り掛かるようにして
しゃがみこんだ
心が痛かった
遥香さんと手を繋ぐあのシーンがフラッシュバックしては
僕を苦しめる
「慧ちゃん」
「ん?」
彼女は僕の手を握った
誰かと繋いだその手で
「遥香さん、コンビニ行ってきます。牛乳切れてたんで」
少しでもいいから逃げたかった
狂いそうな僕を
誰か助けてください
「私も...」
「遥香さんはここに居てください。すぐ帰ってくるんで」
「でも」
「いいから!居てください...」
怒鳴ってしまった
何してんだろ
コンビニから帰る途中だった
「あれっ高杉じゃん!」
先輩だった
「ういっす」
「背のびたな!」
「男なんで」
「お前、一人身だもんな、大丈夫だよ。女なんて山程いるんだからさ!」
「え?」
「え?って別れたんだろ?」
「別れてないっす」
「え?だって...お前知らないの?」
「なんとなくはわかってます」
愛しい君を
信じたい
信じたいんだ
君が何度僕を裏切っても
僕だけは君を裏切らない
好きじゃなくたって...いいんだ
「慧ちゃん!」
彼女は僕に抱き着いた
「家に居てって言ったはずじゃ..」
「帰ろ」
「え?でも、ッ先輩が」
「帰りたい...」
「すいません、先輩」
「いんや、気にスンナ」
俺の右腕は固まった
どうしたらいいんだよ
「慧ちゃん、私..」
「ん?」
普段どうり、俺はこのままで
彼女と話せばいい
彼女と話せるだけでいい
それだけでよかったじゃないか
欲張りになってたのかな
それだけでよかったのに
「慧ちゃん」
「遥香さん」
重なるように名前を呼んだ
視線を彼女に合わせた
「まだ、寒いんであったかくして休んで下さい。課題の提出日はちゃんと確認してくださいね?ご飯はできるだけ外食は避けて...コーヒーに砂糖を入れ過ぎないように」
「慧ちゃん、何それ...お別れみたい」
僕は彼女の手を握った
やっぱり、冷たかった
「好きでした、遥香さん」
僕は振り返らなかった
俺の名前を呼ぶ愛しい人
涙は止まらなかった
好きだった
好きでたまらなかった
愛しい人
僕は何にも変わらなかった
いつもどうりだった
何にも変わらない日常はいつまで続くの?
校門の前が騒がしい
なんかあったのかな
視線があった先には
赤く目を貼らした女性が居た
「遥香さん...?」
彼女だった
僕の愛しい人
「慧ちゃん!」
もう会う事なんかないと思ってた君が
僕の腕の中にいる
「いかないで」
「遥香さん、桜咲いてるよ、綺麗でしょ?桜好きだもんね」
「慧ちゃん」
「春だよ」
「うん」
僕は君が好き
君は誰が好きなの?
それが僕になる日はくるの?
どうしたら僕だけを見てくれるの?
僕が悪いの?
こんなにも近くにいるのに好きが遠い
君が遠い
僕の愛しい人




