後編
クリューチには二つの不安がありました。
一つ目は、狼が人間の生活に馴染めず、すぐ帰ってきてしまうのではないかと。
二つ目は、狼が人間の生活にはまってしまい、三ヶ月経っても戻らないのではないかと。
クリューチはそんなことを思いながらも、狼を信頼していました。
果たして狼は三ヶ月後、無事に泉にいました。戻ってきたのです!
少々興奮した様子で、人間について事細かに話し始めます。
「ええ、クリューチ様。本当にすごかったのです。私はとりあえず、宿を探したのですが―」
親切な人のおかげで、安く、それにしては上等な宿を見つけたこと。
そこの女将さんが大変優しく、働かせてくれたこと。
慣れない環境に風邪を引いたものの、看病してもらったこと。
人間の食べ物は素晴らしく、いくら食べても飽きないこと(この時点で狼は、ベジタリアンになりかけていました)。
それから―それから――
狼の言葉はとどまることを知りません。クリューチはそんな話も、ただ黙って聞いていました。
「それから…その。美しい娘と知り合ったのです」
『む?』
クリューチには彼の言いたいことが分かりました。
『よもや食べる気ではあるまいな?』
「とんでもない!」
『冗談だ』
狼はほっと息を吐きます。
『恋をしたのであろう?』
狼が微かに頷くのを見ると、クリューチは若干呆れ顔をしました。
別に、獣と人間の恋は禁止されてはいません。しかしこの辺りでは例を見ないことも、事実です。
「私はたくさんの人間に出会いました。優しかったり、厳しかったり。時には悪い人もいて…その時は噛み殺してやろうか、なんて思いました」
狼はいたずらっ子の笑顔でそう言いましたが、冗談には見えませんでした。
「でも、孤独はありませんでした」
『ほう』
「いつも誰かが傍にいてくれました」
狼はそこで言葉を切ると、ふいに
「人間を滅亡させるべきではありません」
クリューチはある程度、その答えを予想していたのでしょう。
『…なぜだ?』
「人間は愚かです。馬鹿です。私たちにも分かる簡単なことは、何一つ理解できていません」
狼は変わらぬ無邪気な笑顔で
「でも、私たちには分からないことを、自分たちの手で開いてきました」
クリューチの瞳を見つめ
「だから私は、彼らに期待したい。そして…彼らに混ざりたい」
「私は人間として生きたい」
狼の心からの言葉だということは、クリューチも承知していました。それでも―尋ねました。
『後悔…しないな?その女にフラれても、友人に裏切られても、周りが皆、敵に見えても。狼になりたい、なんて思わないと誓えるか?』
「このエメラルドの泉にかけて」
それが、ここらの狼の誓い文句でした。
『よし』
クリューチが空中から取り出したのは、タキシード。
『我の知るうちで最も上等な服だ。着ていくがよい』
「ありがとうございます」
狼は苦笑しながら、それを受け取りました。
『完全な人間となれば、我の姿は見えなくなる。しかし我は、常にお主を見ておるからな』
「はい」
『それから…記憶もなくなる』
「…え?」
狼には初耳なことでした。しかしクリューチはさも当然のように、続けます。
『それでも潜在意識はあるかもしれないな…生きている動物を食わないように』
「ちょっ、待ってください!」
『それから後は…』
「己が狼だったことも…クリューチ様のことも、忘れるということですか!」
『いかにも』
「嫌です!ならいいです!私はここで狼として―」
『誓ったことはもう変えられん』
ぐらっ、と狼の体が傾きました。足取りはおぼつかず、酒にでも酔ったようです。
『じゃあ…な』
待って!
そう叫んだつもりでした。
でも狼は意識を失い、そして…
「どうしたんだよ、翔太。朝から様子おかしいぞ」
クラスメイトが話しかけてくる。僕はぼーっとする頭をおさえ、なんでもないよ、と返した。
なんだろう。分からない。大事な何かがあったはずなのに…。ダメだ。
それよりあれだ。彼女と放課後デートがあるんだ。服はどうしよう。あのタキシードにしようか。
…なんでタキシードなんだ?
クリューチは呼吸を荒くしながら、微笑んでいました。
『よかった、狼よ。本当に。我はまた、一人だな』
信仰を失った神に、存在する意味はないのです。
忘れられた神は、死んだも同然なのです。
『幸せに…な』
クリューチの姿が消えていきます。それはある意味、何物よりも神秘的でした。
残されたエメラルド色の泉だけが、キラキラと輝いていました。
これは童話なのか??と思う今日この頃です。読了ありがとうございました。