前編
あるところに一匹の狼が住んでおりました。彼の仲間はいつの間にかいなくなりました。森の動物たちは彼をおそれ、近寄ってこようともしません。いつまでも、ひとりぼっちの日々が続きます。
狼はとっくに、そんな生活に嫌気が差していました。
ある日、ついに狼は決心し、狼のみぞ知る森の奥の奥、エメラルド色の泉に足を運びました。
そこに伝わる伝説。女神クリューチ。
「クリューチ様!おられるならば、私にお応えください!」
ぽちゃん…
ふいにそんな音がすると、水面が揺れ始めました。それはだんだんと大きくなって―
『お主か?我を呼んだのは』
思わず目を閉じてしまうほどの光とともに、クリューチが現れたのです。
「クリューチ様!そうでございます!ああ、嬉しい!話は本当だったのだ」
狼はそう叫んでから、慌てて座り直しました。
「申し訳ありません…つい」
『いいのだ。我も誰かと話すのは久しい。ここを動けん身だからな。仲間はどうしておる』
狼は目を伏せると、ぽつりぽつりと話します。
「狼は…私一人になってしまいました。皆人間に殺されるか―遠くに越してしまったのです」
『お主は?』
「この森を離れることなどできません」
クリューチは温かいほほえみを浮かべると、狼に尋ねました。
『なぜ我を呼んだ?』
「それは私の願いのためです」
『して、願いとは?』
「私は誰とも仲良くできません。その一端は私が狼なことにあるのでしょう」
『…狼をやめたいと申すか』
「…はい」
狼の瞳には強い決意がとれて見えました。
『お主は狼としてこの世に生まれ落ちた。なのに狼をやめたいと申すのか』
「だからこそクリューチ様、あなた様にお願いしているのです」
クリューチはため息を一つ吐いてから
『何になりたいのだ。狐か?鼠か?鳥か?それとも土竜と申すか』
「人間でございます」
『人間…だと?』
クリューチは目を見開きました。その意図が読めなかったのです。
『なぜ?仇であろう』
「存じております。だからこそ、です」
『奴らの行動は、神でも予想できんのだ。我々も頭を悩ませているのに』
その様子を見ると、本当に悩みの種であることが分かりました。
狼は少し驚いていました。
「神様でも…ですか。元々は神がおつくりになったのでしょう」
『そうなのだが…奴らの成長はまったくの想定外なのだから』
「といいますと?」
『少し多くつくりすぎたらしい。今ではどこもかしこも人間だらけ、なんだろう?』
「はい」
それは狼にも理解できました。誤って少しでも森を出てしまえば、いくら狼でも殺される覚悟をしなければなりません。それに最近は森の中にもやってきて、狼を殺そうと弾を飛ばしてきたり、罠をはったりするのです。
『こちらとしては、恐竜と同じ方法で始末してもいいのだが…』
「…滅亡させるのですか」
『正式には決まってないがな』
ふと、クリューチが空を仰ぎ、こんなことを言い出しました。
『よし、狼よ、命令である。人間が生きるに値する生き物か、潜入調査を行ってくれ』
「え?」
『期間は…そうだな、三ヶ月。その間、人間のなりで調査を行ってほしい。…嫌ならいいが』
狼は思わず泣きそうになりながら、力強く頷きました。
「喜んで!クリューチ様のためでしたら!」
『そう言ってもらえると嬉しい。ほら』
クリューチが一度瞬きをすると、狼は美しい少年の姿になっていました。
「わぁ…!」
狼は跳ねて、回って、転んで、笑って。すっかり、この姿が気に入った様子です。
『よいか。三ヶ月後の今日、必ずここに戻ってくること。お金はいくらか渡そう。人間というものについて、詳しく調べてくれ』
「はいっ!」
狼はぺこりとお辞儀をすると、お金の入った袋を大事そうに抱えながら、木々の間を駆けていきます。
『頼むぞ…』
クリューチは一言だけそう呟くと、また、どこかに消えて行きました。