第二章②
沢村ビートルズというロックンロール・バンドが結成された理由の一つとして、錦景女子高校の寮の唯一の三人部屋、通称トリプルベッドルームに沢村マワリと沢城ミカコと村斑ココロの三人が選ばれた、ということが挙げられる。もちろん三人が選ばれたことは偶然だし、きっと事務所の人が適当ランダムに配置した結果であることは間違いない事実だと思うんだけれど、その適当偶然ランダムによって人種も国籍も思想も違う、というわけでもないんだけれど、とにかくこの三人が選ばれ、沢村ビートルズというヒーザン・ケミストリィが錦景女子に発生したことを、マワリは運命だと思っていた。
でも、それを運命だとは思えないときもある。まあ、結構ある。例えば貴族階級出身のミカコがヒステリックになったときとかだ。
「止め、止め、止め、もう止めですっ!」
急にベースのミカコが叫び両手を頭の上で振った。マワリはミカコを睨むように見て、六弦を響かせたままギターをスタンドに降ろした。ココロはドラムをトトンと叩いて綺麗に演奏を止めた。十二月二十三日は天皇誕生日だから三人が所属する一年E組の教室には誰もいない。だから生徒会に認可を貰って沢村ビートルズは教室で新曲の練習をしていた。明日、二十四日のクリスマス・イブにはパーティがある。盛大なパーティだ。そこで初披露する新曲の練習をしていたのだ。
「なぁに、急に?」マワリはアンプの上に置いたミネラルウォータを手にして聞く。「トイレ?」
「こんなんじゃ駄目だわっ!」ミカコは長い黒髪を振り乱し、頬を赤く染めて、ヒステリックに叫ぶ。「全然っ、駄目だわっ!」
また始まった、とマワリはミネラルウォータを飲む。ミカコは一般的にヒステリックになりがちの錦景女子の中でも特にヒステリックになりがちだった。ココロはマワリときっと同じ気持でスマホをいじり始めた。野球に関する最新情報を確認している。ココロは大の野球ファンで、高校野球からメジャーリーグまで、ありとあらゆる野球のデータが彼女の脳ミソには入ってる。「お、やっぱりヤンキースかぁ」
「ココロっ、」ミカコはキッとココロを睨みつける。ミカコは普段から貴族階級出身という感じの、気高いというか、気の強そうな目をしている。「今は野球のことを忘れなさいっ!」
ココロはとろんというか、まったりというか、感情のあまり出ない目を野球帽の鍔で隠した。ココロは巨人軍の帽子を被っていた。上半身は巨人のユニフォームだ。ココロは体が小さいからユニフォームはブカブカだ。巨人のユニフォームは沢村ビートルズのステージ衣装でもある。上半身はユニフォームで、下半身はスカートが沢村ビートルズの三人の舞台衣装。さてそれはともかくとして、ココロが目元を隠したということは、目に感情が芽生えている、ということ。それはつまり野球のことを忘れろと言われて、イラっとしたということ。「野球を忘れるなんて私には出来ない、それより野球しようぜ」
野球しようぜ、というのがココロの口癖だった。マワリもミカコも野球は嫌いじゃないけれど、そんなココロの提案に乗ったことって春から今までほとんどないと思う。
「しませんっ!」ミカコは鋭い口調でココロの提案を拒絶した。「野球なんてしている場合じゃないでしょう!?」
言われ、ココロは盛大に舌打ちして帽子を取り、感情のある眼でミカコを睨みつけた。こんな風にココロが感情を露わにするようになったのは、比較的最近のことだった。それは三人が仲良しになったという証拠とも言えるし、単純にミカコのヒステリックに我慢がならなくなったとも言える。「ミカコ、お前今、野球なんて、って言ったか?」
「ええ、言いました、」ミカコは長い髪を払い腕を組んだ。「野球なんて所詮、労働者階級のためのスポーツ、私がやるに相応しいものではありません」
「言ったな、お前っ、」ココロは素早い動作でミカコの襟首を掴んだ。「バカ野郎っ!」
「ば、バカ野郎って、」ミカコもココロの襟首を掴む。「侮辱しましたわねぇ!」
「ああ、もう、止めて、止めな、止めなさいよ、もぉ!」マワリは二人の間に割って入り、両手でぐっと二人の肩を押して距離を空ける。「一体、何なのよ、ミカコ、何が気に入らないのよ、何が全然駄目だって?」
「ヒーザン・ケミストリィが起きてないから!」ミカコは今度はマワリの襟首をぐっと掴んで言う。「私たち三人のヒーザン・ケミストリィが起こっていないから、私は駄目だと言ってるんですっ!」
ヒーザン・ケミストリィ、とはミカコがよく口にする言葉だった。異教徒間の化学反応。それはオアシスの五枚目のアルバムのタイトルだった。ミカコは小さな頃からバイオリンを習っていて、彼女の母親は娘をバイオリニストにしたがった。でもミカコはバイオリンを奏でることが苦痛だった。音楽自体が嫌いになっていた、そんなある日のことだった。小さなミカコはバイオリンを辞めたいと伝えに父の書斎に訪れた。父が母を説得してくれると期待したのだ。父は書斎にはいなかった。父はいなかったけれど、優しい音楽が書斎の奥のプレイヤから聞こえた。それはオアシスのソングバードという曲で、回転していたアルバムの名前はヒーザン・ケミストリィ。それからミカコはロックの世界にのめり込んだ。運命を変えてくれたきっかけだから、その言葉をミカコはよく口にする。でも、マワリにはヒーザン・ケミストリィと言われたってよく分からない。それはとどのつまり、ミカコがマワリとココロの演奏が気に入らないっていうことだし、どこがどう気に入らないかきちんと色を付けて説明してくれなくちゃ、いくらヒーザン・ケミストリィと言われたって理解不能意味不明なのだ。マワリだってオアシスは好きだし、ヒーザン・ケミストリィも何度も聞いた。ヒンドゥ・タイムスは最高だと思う。けれどでも、分からないものは分からないのだ。
「もうちょっと具体的に言ってくれない?」マワリは空になったペットボトルでミカコの肩をトントンと叩く。「何が気に入らないのか、ハッキリ言ってよ」
「ヒーザン・ケミストリィだって言っているでしょう!?」ミカコはマワリの襟首から手を話し、拳をギュッと握り締めて窓の方に顔を向けて主張する。なぜ窓の方を向いたのか、庶民のマワリには理解不能意味不明のことだ。「マワリのギターが歪み過ぎとか、ココロが走り過ぎとか、そういうのはどうだってよくってね」
「え、歪み過ぎだって?」マワリはミカコの肩を掴んで振り向かせる。「歪み足りないの間違いでしょ!?」
「だからそう言うことはどうだっていいのですっ、そんなことよりヒーザン・ケミストリィなんですよっ!」
「私、走ってた?」ココロがマワリに聞く。意外と気にしやすい性格なのだ。「一応、リズムはキープしてたつもりなんだけどな」
「私は走ってくれた方が好き、」マワリは本当のことを言う。「それがココロのドラミングのいいところだし」
「え、それ、ちょっと、初耳なんけどぉ、」ココロは帽子を深く被って目元を隠した。「ちょっとショック」
「そんなことより、ヒーザン・ケミストリィですってばっ!」
「ああ、もう、そればっかり、」マワリは両手を挙げて椅子に座った。「そればっかりなんだから、ああ、もう嫌、もう嫌だ、もうやる気ないわ、私今、最低な気分、」マワリは額を右手で押さえた。「ミカコが意味分かんないから最低な気分だわ」
「ええ、私も最低な気分ですっ、」ミカコは腕を組みツンと言う。「酒と煙草とドラッグと男に走りたい気分ですっ!」
「お嬢様がよく言うよ、」マワリは苦笑してやった。「酒と煙草とドラックと男に触る勇気もないくせに、虚勢だけは一人前なんだからっ、お嬢様がよく言うよっ!」
「なっ!」ミカコを顔を赤くして怒る。「私が貴族階級出身だからってバカにしてっ!」
「バカにしてませんわよ、お嬢様ぁ、本日も高貴なヒステリックを見せていただきありがとうございます」
「マワリ、それ以上私のことを侮辱するなら、」ミカコは顔を真っ赤にしてマワリに近づき怒鳴る。「怒りますよっ!」
「怒りますよって、」マワリは立ち上がり、ミカコを睨みつける。「もうお怒りじゃないんですか、お嬢様ぁ!?」
「マワリっ!」
「ミカコっ!」
「私、ちょっと、もう、」ミカコは額を押さえて首を横に振り言う。「言ってしまいそうですっ」
「奇遇ですね、ミカコ様、」マワリは腰に手を当てて言う。「私もです、私も言ってしまいそうですわ」
「ええ、もう」
「もう」
マワリとミカコは一緒に息を吸って、同時に言った。
『もう解散だっ!』
その時だ。
「はいはいはいっ、」誰かが手をパンパンと叩きながら教室に入ってきた。「解散解散解散って、あんたたち、一体何度解散すれば気が済むのよ、もうあんたたちの解散は聞き飽きたわよっ」
『あ、ユウコ先輩』
教室に登場したのは二年の軽音楽部副部長の藤比奈ユウコだった。「全く、あんたたちってば、何かアレば解散なんだから、もう解散の使い過ぎで警察が出動するレベルよ」
「えっと、」ミカコは首を捻って聞く。「ユウコ先輩、警察が来るって、それはどういう意味なのでしょうか?」
「バカ、冗談も通じねぇのか、バカ」
「いや、それが冗談だとしたら、その、」ミカコはナチュラルな口調で言う。「とてもつまらない冗談だなって思いました」
「うるせぇ、バカ」
「あははっ」マワリはミカコとユウコのやりとりに笑ってしまった。
「笑うな、バカ、」ユウコは強く机を叩いてマワリを黙らせた。「とにかく、お前ら、解散してる暇があったらちょっと来い」
「それも冗談ですか?」ミカコが首を傾けてわざとらしく聞く。
「からかってんじゃねぇぞ、バカ」
「あははっ」マワリはおかしく笑う。
「なに、笑ってんだよ、いいから、さっさと来い」
「体育館の裏ですか?」ココロがぼそっと聞く。
「違うよ、バカ」
『あははっ』マワリとミカコとココロは一緒に笑った。
とにかく、沢村ビートルズの何十回目かの解散の危機は免れた。免れたわけだが、沢村ビートルズの三人は新たな問題に巻き込まれることになる。それがユウコが一年E組に現れた理由だった。
軽音楽部の部長の萱原トウカ、副部長のユウコ、それから二年の上野原アヤの三人はフォレスタルズというバンドを組んでいて、その三人は沢村ビートルズと同じく明日のパーティに向けて学校で練習する予定だったのだと言う。
しかし。
「トウカが変なんだ」
『変?』三人は首を傾げて同じことを思う。『トウカ先輩はいつも変ですよね?』
「まあ、いつも変なんだけど、今日の変は、ちょっと特別なんだなよなぁ」
ユウコに付いて音楽室に行けば、アンプなどの機材が並べられたその中心にアヤとトウカがいた。
トウカはアヤに向かって、彼女にしては信じられないくらいおしとやかな口調で訴えていた。
「私、人前でなんて歌えませんっ!」
マワリはトウカがきっとふざけているんだと思った。トウカは恥ずかしがり屋が多い軽音楽部にあって恥ずかしがり屋とは無縁のキャラクタ。豪快に高笑いしたりする、若干煩わしいキャラクタだ。そんなトウカがそんな台詞を言うはずがないのだ。
しかし。
その瞳にはうっすらと煌めくものがあった。
「お願いします、どうか、許して下さい、なんでもします、なんでもしますから、どうか、そんな辱めだけはご勘弁を」
沢村ビートルズの三人は顔を見合わせた。
ユウコは苦笑しながら三人に向かって言う。「どうだ、今日の変は、特別だろう?」