第二章①
武知セイコが岡本マミコトのことにヒステリックになって事務所を飛び出した翌日とは、西暦二千何年かの十二月二十三日だった。
ユナイテッド・メディセンズが所属するファイ・コネクトという事務所は新宿の雑居ビル群の中にあって周囲に比べて少しだけ頭の出たビルの七階にある。新宿の正午過ぎ、綺羅びやかな空気が充満するエントランスを抜け、エレベータで七階に上がり、セイコは事務所の扉を押して中に入った。入ると右手には観葉植物とソファがある。ソファの脇にはインターフォンが設置されていて、奥のオフィスに繋がっている。左手には会議室への扉。正面に通路が延びていて、その突き当たりを左に進むとマネージャたちのオフィスがあり、右に進むと社長室がある。社長は四十代前半のイケメンで、名前は伊東ヒサキ。その社長室の手前にもう一つ部屋があって、その部屋の扉のプレートには応接室と記されている。ユナイテッド・メディセンズの活動が学校の倶楽部みたいなものだとするならば、その応接室は部室と呼ぶに相応しい場所だった。現にセイコたちメンバ全員はその部屋のことを部室と呼んでいた。セイコは部室の扉のノブを回して押し入る。
セイコが予測していた通り、部室には編嶋アサコがいた。メンバで唯一学生じゃない彼女は基本的に部室のソファに寝っ転がり、文庫を読んでいる。今日も例に漏れず文庫を読んでいた。アイドルとは思えない無防備な表情で文字に集中している。口は半開き、髪の毛はくしゃくしゃだった。文庫にはカバーが掛けられていて小説の題名は分からないけれどジャンルは絶対にミステリィだ。アサコが横になっているソファの後ろの本棚にはミステリィ小説ばかりがズラリと並んでいた。アサコはいつか誰かを殺す気だとつまらない冗談を言ったのは、確かマミコトだったと思う。
セイコはコートを脱ぎテーブルを挟んで対面のソファに座り口を開いた。「昨日はごめんなさい」
「んあ?」アサコは文庫の文字から視線を離し、今気づいたという感じでセイコをまっすぐに見つめた。その表情のまま二秒後。アサコは得意のサンデーモーニング・スマイルを見せて首を傾ける。「セイコだ」
「昨日はごめんなさい、その、」セイコはアサコにまっすぐに見つめられることが苦手だから彼女から視線を逸らして言う。「気が動転してしまって、気が動転してしまって飛び出してしまったんだけれど、その、えと、とにかく、ごめんなさい、反省してる、……それで昨日のロケは問題なかった?」
「全然、」アサコは文庫本をテーブルに置き、コーヒーを口にして首を横に振る。「特に何も、いいロケだったわよ」
「そう、」セイコはほっと息を吐く。「よかった」
「学校は?」アサコが聞く。
「今日は祝日よ、」セイコは壁のカレンダを見る。十二月のカレンダはヨーロッパのなんとかっていう山の雪景色だった。その雪景色の下の数字の並びの中の『23』は赤い色。「だから皆、来てるかもしれないって思ってたんだけど」
「集まるには時間が少し早いし、」アサコはカップをテーブルに置き言う。「皆、こんな早い時間に部室に来たことなんてないよ、だから私の髪の毛だって誰にも見せることはないと思っていたから、こんなにご乱心だ」
アサコは両手で髪の毛を束ね、きゅっと後ろで一つに縛った。
「早い時間って言っても、もう正午だわよ」
「とにかくこんな早い時間に部室に二人が揃うことは珍しいことだ、雪でも振るんじゃないかな?」
「外はすっごく寒いよ、振るかもね、雪」
「セイコ、」アサコは膝の上に手を置き、前のめりになって突然切り出した。「私とリョウコとテンマがマイコトといちゃコラしていた件についてなんだけど」
「ああ、それはいい、もう、聞きたくない、だから止めて、」セイコは手の平を前に出し、首を横に振り早口で言った。「別にもう、私、そのことには何も言わない、何かを詮索するつもりもないから、」それは本心だった。セイコはそのことを何もなかったことにしたいと思っていた。何もないし、ユナイテッド・メディセンズの五人には何も変化がないことにしたかった。「どうか、言わないで」
「じゃあ、細かいことは言わない、でもさ、」アサコはゆっくりと身を引き、背中をソファに預けた。「ちょっと反応が過剰じゃなかった? その理由を私は知りたいわけなのよ、もちろん私はそれを誰にも言わないし、もちろん言わなくてもいいけれど、でも私に教えてくれるなら、私は嬉しいな」
「別に、理由っていうか、理由も何も、」セイコは天井のちょっと豪奢な満月みたいな照明を見ながら言う。歯切れは悪い。「……急にあんなことを聞かされたら、誰でもヒステリックになるというものだわよ」
「曖昧だわ、曖昧よ、曖昧過ぎる、」アサコは可愛らしいボイスをわざと出す。「もっと鮮明な色があるでしょう?」
「別にないよ」セイコは下を向いたまま笑った。
「ある」アサコは可愛らしい顔をわざと作って、セイコのことを上目で見つめてくる。
「あははっ、」セイコはにらめっこに負ける。「負けた」
「なぁに、笑ってんの?」アサコは可愛らしく睨んでくる。「失礼しちゃうわ」
「私、怖かった、怖かったのよ、正直に言うとね、」セイコは言って恥ずかしかった。「なんだか、恥ずかしいな」
「恥ずかしがるなよ、」アサコはニヤニヤしている。「ここにはセイコよりも年下の女の子はいないんだから、格好付けなくたっていい」
「アサコが十九歳でよかった」
「嫌みかっ」声を小さな女の子にしてアサコは言う。
「私たち、約束したでしょ、」セイコは表情を真面目にして言う。「覚えてる?」
「それは私たちの最初のことに関すること?」
「うん」
「忘れるわけないよ」
「その約束が、消えてしまうような気がしてね、それが怖かった、マミコトがなんだか、ふざけているように見えて」
「最初から、ああいう娘だよ、マミコトは」
「そうだけどでも、ちょっと、三人と、その、え、エッチしたのは、」言いながらセイコは恥ずかしかった。セイコは猥褻な話が苦手だった。よく言えば清純派。その点だけはステージの上のセイコと一緒だった。「……やりすぎだと思ったのよ、マミコトがレズでも、私はどうも思わない、いや、ちょっとはびっくりしたけど、いや、正直言えば、もうビックリし過ぎてその日の夜は何も食べられなかった、でも私は、私は今まで通り約束に向かって頑張っていきたいって思った、今まで通りの私たちでいたいと思った、でも、マミコトは、なんだか、無理矢理、そうだよ、無理矢理、私たちを変えようとしているみたいで、それが嫌で、ヒステリックになった」
「ちょっと分からないな」
「私も上手く説明できている気がしないよ、」セイコは大きく息を吐いた。ちょっとまだ、頭が回転していないし、気持ちの整理整頓も出来ていない。それはきちんと自覚している。一晩、メンバの人間関係の未来のことをセイコはずっと考えていた。でも未来の形は見えなかった。以前は見えていたものが見えなくなった。未来の曖昧な輪郭も失ってしまったようだ。その原因は分かっている。マミコトがレズだと告白して、リョウコとテンマとアサコと猥褻なことをしたことを告白して、セイコのことを抱いてやると言ったのが原因だ。それは間違いないことだと思う。「ねぇ、アサコ、聞いていい?」
「何でも」アサコは頷く。
「どうしてマミコトとエッチしたの?」
「誘われたから、マミコトが綺麗だから、別に断らなかった」
「アサコはレズなの?」
「リョウコとテンマのことは分からないけど、」アサコは微笑み言う。「私がマミコトに抱かれた理由は、彼女が綺麗だったからよ、私は綺麗な少女が好きよ、レズとかそういうこととはちょっと関係がないな、綺麗な女の子が私のことを誘惑した、その誘惑に私は応じただけ、セイコは綺麗な娘は嫌いなの?」
「私はマミコトに抱かれる気はないわ」セイコはアサコのことを少し睨みつけた。
「ちょっと泣いちゃうかもな」アサコは突然妙なことを言う。
「泣いちゃう?」
そのタイミングでセイコの鞄の中のスマホが震えた。着信を確認すると、マミコトからだ。セイコはぐっと気合いを入れて着信に出る。なぜ気合いが必要なのか、その精神分析は後でゆっくりすることにしよう。別にしなくてもいい種類のものかもしれない。「……もしもし?」
「あ、セイコ?」紛れもなく、マミコトの声が聞こえる。
「な、何よ、」セイコはマミコトの声を聞いて動揺していた。ぐっと入れた気合いがすでに空中分解しそうだった。「急に電話なんて掛けてきてさっ」
「セイコ、昨日はごめん、私は何か、君のことを怒らせることをしてしまったみたいだ」
「べ、別に、もういいわよ、そのことは」
「そうか、セイコは優しいな、そういうところがセイコの魅力的なところの一つだな」
「はぁ、何、口説いてんのっ?」セイコは自分の気持ちを抑えようとしていたけれど、マミコトの声を聞くと、どうしたって無理だった。頭に血が上って熱くなるのが分かるし、感情をコントロールしなきゃって思うのに、どうしたって理性がきちんと機能しないのだ。「誰がレズに抱かれるかっつうのっ!」
「あはは、強がっちゃって」
「強がってなんてねぇ!」
「それでセイコ、ちょっと話があるんだけど、いいかな?」
「な、何よ、」マミコトに話と言われて、短い瞬間にセイコは様々な想像をした。猥褻なことも含めて様々な未来を考えてしまった。「急にっ」
「今日は事務所で明日のゲリラライブの打ち合わせの予定だったはず」
「ええ、その通りよ、明日、クリスマス・イブに私たちは新宿駅南口のクリスマス・ツリーの前でゲリラライブをするのよ」
「今日の打ち合わせは休ませて欲しいんだけど」
「はあっ!」
「大丈夫、きちんと資料は読んでいるし、実は生き別れの姉に会いに行くんだ」
「え?」セイコはハルカの突然の告白に押し黙る。
「というのは、冗談で」
「はあ!?」セイコは叫んで自分の髪の毛の中に手を入れてくしゃくしゃにした。そんな気分だった。「おちょくってんのかっ!?」
「あははっ、おちょくってなんていないよ、」マミコトの声は完全にセイコのことをおちょくっていた。「でも会いたい人に会いに行くんだ、その認可をもらおうと思ってセイコに電話したんだ、だけど実はもう、エクセル・ガールズの二人と一緒に新幹線の中にいて引き返せない状況なんだ、しょうがない状況なんだ、本当は新幹線に乗る前に電話するつもりだったんだけどみどりの窓口の手違いで少しバタバタしてしまって、うん、それで電話をするタイミングを失って慌てて新幹線に乗り込んだ次第さ、だからもう認可をもらう必要もないのだけれども、とにかくセイコには伝えておこうと思って、目的地は錦景市、そこに私が会いたい人がいるんだ」
「ちょっと、ちょっと、マミコトっ!?」
「明日のゲリラライブまでには新宿に戻る、それじゃあ、また、愛しているよ、セイコ」
「あ、ちょっと、待て、こらぁ!」
通話は切れた。
スマホの画面をじっと見ながらセイコは呟く。「……愛してるって、何なのよ」