第一章③
二人しかいない部屋の沈黙が気まずいかどうかで、大抵は二人の人間関係のことがある程度分かると思うのだが、御崎ミヤビと丈旗ケンの二人の場合はちょっと違ってくる。
G県立中央高等学校の放課後、生徒会長と副会長の二人が退室し、書記のミヤビと会計の丈旗は生徒会室に二人きりになった。最初はいろいろと喋ることがある。クラスのこととか、宿題のこととか、二人の共通点である絵を描くこととかいろいろある。しかし徐々に仕事をしながらしゃべることがなくなってきて沈黙が発生する。その沈黙は別に気まずくない。それは気心が知れた二人だからだ。沈黙が発生したって、嫌だなぁ、何か話題を振らなくちゃいけないなぁとは、二人とも考えない。ミヤビと丈旗はともに一年A組。席は隣同士で、入学式の最初から他のクラスメイトに比べて親密な関係を築いていた。それは誰の目から見ても真実だったし、二人だって自分たちは他の二人よりは親密だって思っている。
二十分と少し、二人は生徒会の仕事に集中していた。
さて、集中力が切れると丈旗は大きく息を吐き、椅子のキャスタを転がしてミヤビに身を寄せた。ミヤビは機敏に反応して、丈旗から離れるようにキャスタを転がす。丈旗はもう一度接近するようなことはしないで大きく息を吐いて、折り畳み式の長机の上の書類を纏めながら口を開く。「今、思ったんだけど、二人きりだな」
「そうだな、」ミヤビはペンを走らせながら素っ気なく答える。「でもそれが、一体全体どうしたって言うんだ?」
「俺と二人きりって気まずい?」
「別に気まずくねぇよ」
「本当?」
「なんだよ、」ミヤビはペンを置いて、丈旗を睨む。「気まずい方が良いって言うのっ」
「ミヤビ、最近思うんだがな、言葉遣いが乱暴だぞ、男っぽいっていうか、ボーイッシュっていうか、男成分濃厚っていうか、なんていうかな、俺は錦景市が春の頃の、ちょうどいい感じが好きだったんだけどな」
「どんなだったか、覚えてないね、」ミヤビは伸びをしながら答える。椅子の背もたれがきぃと軋んだ。「私にお上品に喋らせたかったら、お前等男子たちがお上品に喋れよな、そうすれば変わかも、言葉遣いが乱暴になったのだって、ここの男子たちのせいだ、私のせいじゃない」
「とにかく、」丈旗はまっすぐにミヤビを見つめてくる。「二人きりだな」
「別にスペシャルなことじゃないだろうが、きっと何百回目かの二人っきりだよっ」
「今日がスペシャルになるかもしれない、」丈旗はニッと微笑んだ。気持ち悪い。「そろそろクリスマスが近いな、イブは明後日だ、だから今、ハッキリさせておくべきだと思うんだ」
「何を?」
「俺たちのことをだ」
「曖昧なことなんて何もない」
「俺は御崎ミヤビのことを愛している」丈旗は早口で何百回かの告白をする。
「しかし私は丈旗ケンのことを愛していない、」ミヤビはニッコリ微笑んで丈旗の早口のリズムを真似して答える。「私は魔女だから女の子のことが好き」
「でもいつか必ず俺の気持ちに答えてくれるって信じている」
「ああ、気持ちわりぃな、」ミヤビは吐き捨てるように言う。「お前、女子かよっ」
「ああ、」丈旗は頬杖付き、紫色に染まり始めた窓の外を見て言う。「たまには手を繋いで帰りたいな」
「ああ、気持ち悪いっ、」ミヤビは書類を纏めて、鞄を肩に掛け、立ち上がった。「もう、帰ろ、じゃあな、バイバイ」
「あ、ミヤビ、待って、」丈旗はミヤビの鞄を掴んで引き留めた。「お願いします、どうか待って下さいっ」
「なんだよ、」ミヤビは振り返って丈旗を睨みつける。「きめぇんだよ、うぜぇよ、はなせよ、これから私は女の子たちのところに行くんだから邪魔すんな、ボケっ」
「ミヤビ、女の子たちといちゃコラするのはそれはそれは結構なことだが、」丈旗はミヤビにどんなことを言われても動じない。入学式の春から冬に掛けてあらゆる言葉で罵ったせいだと思う。「これから行かないか?」
「どこにだよ?」
「バッティング・センタ」
「行く」ミヤビは即答した。
バッティング・センタは錦景市駅の北側のロータリー脇、高速バス乗り場の隣のフットサルコートの横にある。駅前にあるため、夕方は野球少年に混じって背広姿のサラリーマンも多い。女子はこのセンタで、ミヤビだけだった。
ミヤビは時速百二十キロのところに入り、快音を鳴らしていた。全ての打球がネットの高い位置にあるホームランと赤い文字で書かれた丸い看板付近まで飛んでいた。
「快感」
ミヤビは口元で小さく言った。
「姉ちゃん、すげぇ」
その声に振り返ればいつの間にかミヤビの後ろには見物人が大勢いた。小学生くらいの男子三人がこっちを見ている。彼らの後ろには頭の禿げ上がったサラリーマン、青いつなぎを着た町工場のおっさん、などなどこっちを見ていた。こういったことは珍しくなかった。女子高生が快音を慣らし続ければ必然的に眼は集まるというものだろう。しかし珍しくないからと言って恥ずかしくないことはない。しかし注目されるのってちょっと快感だ。そしてこの状況を利用する手はない。だからミヤビは心の中の小さな恥ずかしがり屋さんを殺して、手の平を見物人に差し出して言う。「もっと私のバッティングが見たいなら、見物料を払ってもらうよ、一人、コイン一枚だ」
そのタイミングで、快音が響いた。そしてセンタ内のBGMが騒がしくなった。誰かがホームランの看板に打球を当てたのだ。その誰かっていうのは、すぐに分かった。丈旗だった。丈旗は時速百五十キロのところからネットを何枚も隔てたミヤビに向かって気持ち悪く微笑んだ。丈旗は中学時代まで野球部に所属していた。日本代表として世界大会にも出たという実力者だ。しかし丈旗は中央の野球部には入らなかった。丈旗はミヤビのことを愛しているから同じ美術部に入り、ミヤビと一緒に生徒会に入った。本当にバカで気持ち悪いと思う。
ミヤビにコインを差しだそうとしていた少年たちとおっさんたちは丈旗に見物の対象を変えた。丈旗はまたホームランの看板に打球を当てていた。少年たちははしゃいでいる。ミヤビは下唇を噛みながら、仕方なく、自分でコインを購入してバッティングを続けた。
結局、ホームランの看板に打球を当てることは出来なかった。もっとやりたいけれど、お財布の現状を考えて金属バットを置いて、自販機でコーラを買って、通路にあるベンチに座った。錦景市は夜の十時に近かった。
ホームランの看板に打球を何度も当てた丈旗は賞品が入った紙袋を下げてミヤビの方に来る。隣に座って丈旗は微笑む。「楽しかったな」
「そうだな、」コーラの缶を口元に当てながらミヤビを答える。「とっても楽しかった」
「あれ、機嫌悪い?」
「別に悪くないよ、」ミヤビはコーラを飲み干して言う。「ただ、どうやったって勝てないなって思っただけだ」
「勝てないなって、何に?」丈旗は首を捻っている。
「何でもないよ」ミヤビは小さく笑った。
その時だ。
ミヤビのスカートの中のスマホが過度に揺れた。
確かめなくても分かる。
死神がこの第三世界に残したアプリケーションの起動に他ならない。