第二章④
錦景市は夕方の五時。
冬の錦景市の色が急激に変化する時間帯だった。遠くの空は紫に呑まれ、青い色はその反対の方角に微かに残るのみ。
風は強く吹いている。
北からの乾燥した冷たい風だ。
コントロールが難しい空であるのか、鳥たちのシルエットは夕日の前に少ない。
しかし錦景市の冬の黄昏の空の飛び方を知っている鳥は確かにいて。
彼らに飛び方を教授してもらおうなんて考えるのは。
やはりこの季節のせいなのかな。
なんて。
セイコは詩的に黄昏ていた。
ここは新宿じゃなくて、錦景市。
セイコは錦景市に来てしまった。
セイコは今、錦景商業高校の正門の前にいる。
ここにいるのは様々な理由がある。
アサコがマミコトのことを追いかけろとセイコのことを焚きつけたのもその一つ。
「セイコ、なぁに、ぼぅっとしてんの!?」
マミコトが誰かに会うために錦景市に向かう新幹線に乗ったことを伝えると、アサコはオーバに驚いてから、わざとらしい口調で言ったのだった。「ぼぅっとしてる場合じゃないよ、追いかけなきゃ、マミコトのことを追いかけなきゃ駄目でしょ、ほら、急がなきゃっ」
「いや、急がなきゃって、」セイコはアサコがふざけているんだと思った。「別に錦景市に行っただけよ、打ち合わせをサボるっていうのは問題だわね、後でお説教しなきゃだわね、でもマミコト、一応、明日のゲリラライブまでには新宿に戻ってくるみたいだし」
「甘いよ、甘々だよ、セイコ、」アサコの声の方が甘々だってセイコは言ってやりたかった。「その言葉って信じられるの? 嘘かもしれないよ、マミコトは嘘を付いたのかもしれないよ、本当のことを言えなくてセイコに嘘を付いたのかもしれないよ、マミコトは言いたいことが言えなかった、言えないこと、なんだろう? いや、簡単に推測出来る、それはすなわち今生の別れ、別れ旅立ちとは寂寞を禁じ得ないものだからマミコトは言えなかった、セイコには言えなかったんだよ、セイコには帰ってくると約束したんだよ、最後の電話だったのかもしれないよ、もうマミコトはセイコのところに戻って来ないかもしれないよ、セイコはそれでいいの?」
「いや、私のところっていうか、」セイコはアサコを睨み見て、地面を指差し言った。「ここでしょ? っていうか、マミコトは別にどこか遠くに行くわけでも帰ってこないわけでもなくて、ただ人に会いに行っただけよ、人に会いに新幹線に乗って錦景市に行っただけ、寂寞なんて微塵も感じなかったわよ、全く、アサコってば何よ、急に妙なこと言い出して、ふざけるのもたいがいにしてよね」
「ふざけてなんてないよ、ふざけるもんか、」アサコは何か企む目をセイコから背けて言う。「とにかく追いかけなきゃ駄目よ、手遅れになる前に、私たちが交わした約束が未来に守られるためにも、セイコは今、マミコトのことを追いかけなきゃいけないんだよ、それにきっと、マミコトは追いかけて欲しいから電話を掛けて来たんだよ、手がかりを残していったんだよ」
「いや、だからなんでよ」
「セイコのためを思って言ってるんだよ、」アサコはセイコのことをまっすぐに見て言う。「なんでそれが分からないの?」
セイコはアサコから目を逸らす。「……行くんだったらアサコが行けばいいじゃん、マミコトがどこか行っちゃうのが不安なら、アサコが行きなよ」
「ユナイテッド・メディセンズのリーダはセイコだし、一番不安を感じているのはセイコのはずだよ」
「はあ?」セイコはちんぷんかんぷんなことを言い続けるアサコに腹が立っていたし、そう指摘されてマミコトに対して不安になっている自分の気持ちにも苛々していた。「……マミコトのところに行くにしても、錦景市のどこにいるのかも分からないし」
「もう一度、電話して」
「それは嫌」
「なんで?」
「なんでもよ」
「ああ、確かにマミコトが新宿に帰ってこない気でいるなら、本当の居場所を教えてくれることなんてないだろうしね」
「そうよ、うん、そう、だから電話は掛けない」
「それだけ?」アサコはセイコの顔を覗き見る。「電話は掛けない、それだけ?」
「ああ、もう、分かった、分かったわよ、」セイコは立ち上がり言った。「マミコトに会いに行ってくるわよ、行ってくる、行ってくるからだから、もう私のことをじっと見つめないで」
「行ってらっしゃい、」アサコは得意のサンデーモーニング・スマイルで見つめてくる。「あ、きっとマミコトはエクセルガールズの二人と一緒だと思うから、そうね、最初は二人が通う錦景商業高校に行ってヒントを探すのがいいと思うわ」
そんなアドバイスを聞いて、セイコは自宅に戻り簡単な支度をしてから新宿駅のみどりの窓口に向かった。みどりの窓口の綺麗なお姉さんは正確な仕事をしてくれた。だからスムーズに新幹線に乗ることが出来た。一時間くらいで錦景市駅に着いた。錦景市駅前は都会でもなければ田舎という程でもない、中途半端な県庁所在地だった。南口から出てタクシを拾い、目的地を錦景商業高校と伝えた。
というわけで、セイコは今、錦景商業の正門の前にいる。正門からコンクリートの地面が昇降口まで伸びていて、その左右にグラウンドがある。右の方のグラウンドではサッカー部が、左の方のグラウンドでは野球部が練習をしていた。左のグラウンドの奥の方にだらだらと走っている、水色のウインドブレイカを纏った四人の女子を見つけた。彼女たちはグラウンドの隅を反時計回りに走っている。待っていれば正門に近いところまで来るだろう。野球部やサッカー部の屈強な男子たちの練習を邪魔してエクセル・ガールズの所在を聞くのは気が引ける。怒られるかもしれないし、セイコは彼女たちにエクセルガールズの二人のことを聞こうと思った。もしかしたらエクセルガールズの二人は校内にいるかもしれないし、マミコトも一緒かもしれない。
それにしても。
マミコトが会いたい人って一体誰なんだろう?
全く検討がつかないし。
マミコトのことを全然知らない真実に、セイコは気付く。
セイコがマミコトのことを考えてぼうっとしている間に。
水色のウインドブレイカの四人すぐそこまで来ていた。
そして正門の手前を通過。
セイコの前を左から右へ。
ウインドブレイカの女子四人は全員セイコのことをちらちら観察しながら目の前を通過した。おそらく国民的アイドル、ユナイテッド・メディセンズのメンバであることがバレないように、ロックスターみたいな巨大なサングラスを掛けていて、ヒョウ柄の裾の長いコートを着ていて、ワニ皮のブーツを穿いていて、唇を赤く塗っていたからだろう。その装いは正体を隠すに最高の選択だが、不審者に見られないためには最低の選択だった。そんな格好で学校の正門の前にいるのは不審者以外には、今の状況のセイコぐらいしか考えられない。
四人は不審者を見る目でセイコのことを見ながら、野球部の練習するグラウンドからサッカー部が練習するグラウンドへとだらだらと走っていった。彼女たちの背中には『錦景商業高校女子合気道部』と記されている。
セイコはその背中を見ながら、大きな溜息を吐く。
「……知らない人に話しかけるなんて、」セイコは一歩後ずさり、正門から離れて呟いた。「無理だわよ」
セイコは極端な人見知りだった。
ユナイテッド・メディセンズの武知セイコは世間知らずのお嬢様で普通の人たちの暮らしに興味津々でミステリアスな質問が絶えない、という恥ずかしがり屋とは程遠いキャラクタだが、正真正銘の武知セイコのキャラクタとは極端な恥ずかしがり屋で人見知り。アイドルを演じていて恥ずかしがり屋はいつの間には治っていると思っていた。錯覚していた。でも、アイドル・モードのセイコとノーマル・モードのセイコはやっぱり別人で、変身前のセイコは相変わらず人見知りで恥ずかしがり屋のようだ。モードの切り替えは自分じゃ出来ない。モードを切り替えるにはセイコ専属スタイリストの高津チアキの『今日も素敵よ』という声を聞いてマネージャの古田ミツオのゴーサインに頷きユナイテッド・メディセンズの五人で円陣を組んで叫びステージに立って呪文を唱えなきゃいけない。その手続を踏まないとセイコはアイドル・モードになれない。
アニメの魔法少女みたいに呪文を唱えなきゃ駄目なんだ。
だから今は無理だわよ。
でも。
話しかけなきゃいけないわよね。
「……せっかくここまで来たんだから」
そう、セイコが呟いた時だった。
「はじらい・ぶれいくぅ」
頭のすぐ後ろ。
いや。
耳元で誰かが囁くのが聞こえた。
人の気配を感じた。
冷たい風。
冷たい空気の中で。
人の熱を感じた。
はっとして振り向く。
誰もいない。
後ろの道路を一台の車が通り過ぎた。
それだけだ。
しかし。
確かに聞こえた。
でも。
気のせい?
はじらい・ぶれいくぅ?
全く理解不能意味不明。
そしてそのまま。
再び四人の水色のウインドブレイカの合気道部がセイコの目の前を通り過ぎようとしていた。
彼女たちの接近に心臓が大きく高鳴る。
大きく高鳴り。
なぜかとても体が熱くなって。
気付けば思うままに体が動いていた。
錦景商業の敷地の中に一歩足を踏み入れ、セイコはサングラスをはずし、四人の水色のウインドブレイカの合気道部の進路を遮って、張りのある声で聞く。
「ちょっとお聞きしますが、あなたたちはエクセルガールズのことをご存知ですか?」
まるでここがステージのような、不思議な気分を味わいながら。
セイコは天真爛漫のお嬢様の口調で聞く。
セイコはなぜか今、アイドル。モード。




