プレリュード
歩き疲れた、というか、全く歩いてはいない今日なんだけれども、でも疲れているのは夢とか勘違いとかじゃなくて、真実なのだ。ただ酒を飲み過ぎただけなのだ。私はハイボールが好き。おっさんとか、言うなよな、とは言わない。そういうキャラクタもありだと思っている。でも、私は一度も会社の飲み会とかで、真実の乱心を見せたことはない。どんなことがあっても、おっさん、おっさん、おっさん、たちの前では真実の私は見せない。私は一人孤独にいるときか、あるいは大好きな女の子の前でしか、乱れない。それは真実だが、悲しいことに、最近は一人ばかりだ。一人ぼっちで乱れている。古い時代に私が愛して、私を愛してくれた人は元気かな、と思うこともあったりして、私は今、センチメンタルの渦の中にいる。
街はすっかりクリスマスムード。
様々な色のライトがチカチカと、点滅していて、イヤホンで耳を塞いでいるのに、騒がしいなって思う。
私は今、二十六歳、という大事な節目を迎えているんだけれど、古い時代のハルカのように、何かをクリスマスに考えなくなった。それはクリスマスソングが好きで、一年中クリスマス気分を味わっているせいかもしれないが、一番の理由はきっと違う。
私が世界を作り始めた。
ということに起因しているのではないか、と思うのだった。
もちろん、神様の話をしているわけじゃない。ここに神話はいらないし、私は神話の細かいことも知らないし、興味もない。ありふれた世界、というのは好きじゃない。ありふれたとはここでは、カッコつけやがって、という複雑な意味である。
ええっと、とにかく、私の世界の話だ。私の世界を作り始めたから、クリスマスどころではなくなったということだ。クリスマスじゃなくて、お正月や節分やひな祭りや、とにかくあらゆるイベントのことを考えなくなった。だからと言って一年に季節を感じなくなったわけじゃなくて、私は私の世界の中で感じている。春に冬。夏に秋といった風に季節外れなことを考えている。現実の季節から離脱するのは、現実から逃げたい証拠だ。私の現実は楽しくないことはないんだけれど、私の世界よりは面白くない。私は、私の紡ぐ物語の楽しさの中にずっといたいと思っている。
私は、私の古い時代の話を思い出しながら、それに派手な色を付けて、物語にしている。特に、色濃かった、女子高生だった三年間。二十三歳からの三年間ってあっという間で、特に派手なこともなかったんだけれどでも、女子高生だった三年間って凄く色が付いている。私が女子高生だった、三年間。
私が魔女だった、三年間だ。
最近、私は、私の住む、煙草の煙とビルの色とアルコールの匂いで灰色の街のマクドナルドでキーボードを叩いている。それは部屋にいると女の子の猥褻な写真集やビデオを見て興奮してソロプレイをし始める、ということと全く関係がない、ということは言えないんだけれど、でも、それ以上に思っていることがある。
人の呼吸を感じていたい。
煙草の匂いが強烈で嫌になるときもあるんだけどね。
ちょっとそれは現実逃避していることと矛盾していると思うんだけれど、そういう気持ちはハイブリットに存在していてつまり、私はまだ、現実に期待している、ということが言えると思う。
思えば、私はずっとマクドナルドにお世話になっている。高校生のときも、女の子と何か大事な話をするのは、学校でも、魔女の仲間が集まる『マシロの家』でもなくて、マクドナルドだった。錦景市駅地下街のマクドナルドの奥の座席。トイレの横で、ちょうどパーティションに区切られていて、照明が十分に当たらなくてマクドナルドの癖に妙に雰囲気のある席が、内緒話をするにはうってつけだったのだ。
今私がノートパソコンを開いているマクドナルドは、高校生のときに通いつめた錦景市のマクドナルドじゃない。私は西の方の大学に通うために錦景市を離れた。そしてそのまま西の方で就職してしまったから錦景市はずっと遠い世界になってしまった。古い時代に愛し愛され恋をした記憶は夢だったのではないかと疑うこともある。今すら、疑っている。
私は確かに、ここにいるのか。
なんて。
ああ、やっぱりセンチメンタル。
ご乱心?
昨日の酒が、今日の夜まで、残ってしまったのかな。
私は、灰色の街のマクドナルドの柔らかいソファに座って、ぼうっと夜の喫煙ルームを眺める。
正面はガラス張りで外の大きな交差点を行き交うタクシーがよく見える。そのガラスに向かうように席があり、頭上には灯籠のようなライトが五つ並んでいる。その席は一組のカップルと、頭が禿げ上がった男性がいる。ハゲの男性はカップルに向かっておもいっきりくしゃみをしていた。とっても汚い。でも男性が着ているスーツはアルマーニだった。その手前には円卓が二つ並び、その一つにはサラリーマン二人が議論をしている。右側のスーツを脱いだ男性が、熱弁を振るい、もう一方の男性は「議論はよそう」と訴えている。私が座るソファの席は六つある。左右の端にサラリーマン。右のサラリーマンの隣に私は座っている。私は二時間前にここに来て、ずっと何かを考えていたのだが、きっとその表情が綺麗だったから、サラリーマンは私の隣に座ったんだと思う。まあ、それはきっと真実じゃない。今の私はユニクロのださいフリースを着ていて、金縁のメガネを掛けていて、アディダスのスニーカを穿いていて、対面の椅子に置いてある鞄のメーカはルイ・ヴィトンじゃなくて、マリエ・クレイルで、自慢の髪に今日は一度も櫛を通していないとてもださい女子だ。いくら仕事に疲れ果てたおっさんでもこんなださい女子には反応しないはずだ。二十六歳は女子じゃないって? でも、一つ席を飛ばして左に座るお姉さん二人組は自分たちを女子と呼んでいるし、私だって女子で構わないって思うのだよ。ええ、思うのだよ。思わせてくれよ。ああ、でも、右手前方に見える女子三人組、いや、今見たら、女子が一人増えて四人組に増えていた、彼女たちに比べれば、二人組のお姉さんも私ももう、立派に成熟して、この世の何かを悟り、後はゆっくり眠るだけのレイディだ。そんなレイディこと、私はさっきからその女子たちのことが気になって仕方がない。
じっと観察していないから確かなことは言えないけれど。
四人ともアイドルのように可愛らしい。
別に私はロリコンとかじゃないんだけれど、すっごく惹かれるものがある。
話しかけたいな。
しかし。
そんな勇気は二十六歳の女子にはない。
でも。
マクドナルドにはクリスマスソングが溢れている。
だから。
「はあ」
私は小さく息を吐く。
やっぱり出来ないな、そんなこと。
魔女でもなければ、女の子をナンパするなんて、出来ないよ。
もう、ノートパソコンを畳んで帰ろうって思った。星空を見ながらゆっくり帰って、アイドルのライブのビデオを見ながら、哲学的なことを考えようって思った。誰かに電話を掛けようかなって思った。
そんなことを思っていたら、四人組の女子の一人が席を立った。
その女子は私の方に近づいてくる。上半身は白と黒のボーダのセータ。短い赤茶色のスカートから伸びる足は黒タイツに包まれていた。ロシア人っぽいモコモコの帽子を被っていて、先に丸いふわふわがついた耳元から垂れる紐が、彼女が歩くとゆらゆらと揺れた。
私は別に何かを思わなかった。
私の方には喫煙ルームの扉がある。女子はその扉を横にスライドさせるのだろうと思っていた。
私はぼうっとしていた。
そんなぼうっとしていた私の正面に、その女子は立った。
私はビックリして、何も言えずにただ見上げた。
その女子は私の顔をじっと覗き込む。
だから私もその女子をじっと、まっすぐ見つめた。
近くでよく見て、よく分かった。
とっても綺麗な少女だった。
しかしその少女の表情は、複雑だった。
怒っているようにも見える。
チラチラ、女子たちの方を見ていたことがバレたのだろうか。
でも、怒るほどのことじゃないでしょって思うんだけど。
とにかく。
そんな少女の複雑な表情を見ながら私はなぜか、思い出していた。
錦景市での、あの、冬の日のことを。
そこには残すに相応しい、短い物語があったことを思い出した。
思い出して私は、本日一番の、センチメンタル。
「……もしかして」
少女は口を開いて、私の金縁の眼鏡を奪った。