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事件編

 本作品はフィクションである。登場する事件・人物・組織・建物については現実のものとは一切関係なく、まったくの作り話である。内容が内容なのでここに改めて明記しておく。


 また、解決編までに犯人を指摘する事も可能である。興味がある方はぜひ犯人当てに挑戦してほしい。それではどうぞ。

 99.9パーセント。これは日本における営利目的誘拐事件の解決率である。営利目的誘拐、すなわち身代金目的の誘拐は、日本においては最も割に合わない犯罪として語られることが多い。リスクが異常に高い割に成功率は低く、なおかつその過程で殺人を起こせば、その罪は通常殺人罪より重く、死刑か無期懲役の二択である。戦後以来、日本における営利目的誘拐事件で犯人が逮捕されなかった事件はわずかに二件だけ。そのうち一件は身代金受け渡し現場で犯人がトラックにはねられて死亡するという小説まがいの事態によるもので、純粋に犯人が時効まで逃げ切った事例はわずかに一件だけである。

 営利目的誘拐事件がここまで難しいのには、そもそも通常の犯罪と違って自ら警察に接触しなければならないという他の犯罪には見られないリスクがあるためである。さらに、日本の警察の誘拐事件に対する腰の入れ方は他国に比べて尋常ではない。日本では誘拐事件は重大犯罪という認識が強く、警察も殺人以上の捜査体制を敷く。いざ誘拐があったとなればマスコミと報道協定を結び、上は各県警本部長(東京の場合は警視総監)、下は交番の巡査まで、事件が起きた県警のすべての警官に情報が共有され、通常業務を停止してでも誘拐事件解決に全職員が全力を上げる。要するに、一都道府県の県警職員全員を敵に回して戦わねばならないのだ。通常の殺人などに比べて明らかに犯人側のリスクが高すぎる。

 さらには、殺人に匹敵する重大犯罪であるという認識から、日本における誘拐捜査は他国に比べて驚くほど進歩している。電話の逆探知は今や一秒以下で可能であるし、携帯電話が普及した現在、警察は誘拐が起きると電話会社と同盟を結んで携帯電話が使用された基地局を特定して犯人の居場所をある程度まで絞り込む。さらに一度携帯を特定してしまえば、未使用の状態でも電源さえ入っていればその携帯がどこの基地局の圏内にあるのかを特定でき、携帯をさながら発信機として活用することも可能である。要するに、取引云々の前に電話をかけた時点でほとんど犯人の居場所が丸裸にされてしまうのだ。他国の誘拐に対する甘い認識に味をしめて日本で誘拐を起こしたところあっさりつかまってしまったという外国人犯罪者も多い。

 ゆえに、近年では営利目的誘拐事件はほとんど下火と化している。あったとしても電話の時点か、遅くとも身代金受け渡しの時点で逮捕されてしまうので、近年ではマスコミ報道されないことすらある。これだけのリスクを背負いながら警察に真っ向勝負を挑む犯罪者が近年はいなくなってしまったと言うことだ。

が、そんな中、警察に対して真っ向勝負を挑もうとする犯罪者が姿を現したのである。


 二〇〇九年八月十七日月曜日の午後二時ごろ。滋賀県大津市琵琶湖線大津駅の改札口に一人の女性が姿を見せた。ショートカットの髪形に、クロスチェックのノースリーブとスカート。年齢は高校生くらいだろうか。手には小さめのキャリーバッグを引いている。彼女は携帯電話で何事か話していた。

「うん、今大津駅に着いたところ。これから京都に出てから新幹線で東京まで帰るから。ううん、特にトラブルもなく過ごせたよ。叔母さんもよろしくって」

 彼女は改札前の柱にもたれかかって電話を続ける。

「事務所に寄るかって? うーん、今日はこのまま帰るつもり。そうそう行っている場合でもないし。うん、じゃあ駅でね、母さん」

 彼女は電話を切ると、フウとため息をついて時刻表を眺めた。

「ちょっと早く着き過ぎちゃったかなぁ」

 彼女の名前は深町瑞穂という。現在、東京都立立山高校三年生。明るい性格の女子で、最近まで学校内でミステリー研究会の会長を務めていた。現在は受験生であるが、まぁ、ボチボチ勉強をしているところである。

 そんな彼女には一つ一般の高校生には似つかわしくない事があった。東京・品川の裏街に事務所を開く私立探偵・榊原恵一。彼女は、この私立探偵の弟子を自称しているのである。榊原という探偵は一見するとくたびれたサラリーマンにしか見えない四十代の男だが、実は近年発生した数々の難事件を次々解決に導いていた凄腕の名探偵である。ミステリー研究会の会員で元々探偵という人種に敬意を持っていた瑞穂であるが、高校一年生のとき遭遇したある事件で知り合ったこの男のずば抜けた推理力に感銘を受け、以降、この私立探偵に事務所に入り浸るようになり、榊原にくっついて数々の事件を経験したりした。

 したがって、かつてに比べればそういった現実の事件に耐性がついたと自分自身では思っている。まぁ、そんなものを身につけたところであまりありがたいとはいえないし、そもそも肝心の推理力がついたかと問われればわからないというのが自分の感想だった。何しろ師事している人間がすごすぎて、自分の立ち位置がいまひとつピンと来ないのである。

 そんな彼女が実家のある東京から遠くはなれた滋賀の地に立っているのは、お盆休みで大津にある母方の叔母の家に一人で遊びに来ていたからである。本当は父母と三人で来るはずだったのだが、父母に用事が入っていけなくなり、やむなく彼女一人で訪れていたのだ。まぁ、従兄妹たちともワイワイはしゃぐ事ができ、充分有意義な時間であったとは思っていたが。

 そして、今日が東京へ帰る予定の日なのである。叔母に最寄りの大津駅まで送ってもらい、これから京都に出て新幹線で東京に帰る予定だ。

「にしてもなぁ、電車来るまで三十分もあるんじゃなぁ」

 瑞穂は時刻表を見ながら小さくため息をついた。どうも叔母の家で時刻表を見間違えたか何かで、電車到着までかなりある。

「どうしよ」

 瑞穂は入り口の方を見て困惑する。大津市の中心はこの琵琶湖線大津駅ではなく、京阪線の浜大津駅である。したがって繁華街や観光地などもそちらにあり、大津駅は主に官庁や企業が集まるビジネス地区である。なので、駅周辺を見渡しても、滋賀銀行や大津地方裁判所程度しかなく、はっきり言って時間をつぶせる場所が全くなかった。かといって、三十分ではどこか遠出する暇もない。はっきり言って、「帯に短し襷に長し」の時間帯だ。

「うーん、このままここで待つしかないか」

 瑞穂は少し困ったように言うと、キャリーバッグを引いて切符売り場の方に行こうとした。

 その時、不意に瑞穂の目にある人物が止まった。

「え、あれって……」

 ちょうど米原行の上り電車が到着したのだろう。何人かの客が改札を潜り抜けていく。その中に、やや強面の五十代中盤くらいの脂ぎった表情の男が、キャリーバッグを引きながら改札から出てくるのが見えた。それだけなら瑞穂が注目することもないのだが、瑞穂の目を引いたのは、そのキャリーバッグの下地の色がピンクで、その上に大きくどこかの遊園地のキャラらしき絵がペイントされていたからである。はっきり言って、持っている男とあまりにギャップが大きすぎて逆に目立って仕方がない。

「世の中には変わった趣味の人がいるのね」

 瑞穂はやや呆れながら呟いたが、ふとその男の後ろの方を見て、再びアレというような表情になった。

 その謎のアンバランス男(と、瑞穂は勝手にその男をそう呼ぶことにした)の後ろから、一見すると官庁の職員のようにスーツを着こなした眼鏡の男がそ知らぬ顔でついて来ているのである。が、その顔に瑞穂は見覚えがあったのである。

「中村警部?」

 以前、京都で事件があった際に知り合った京都府警捜査一課主任警部の中村恭一警部である。一応伊達眼鏡で変装しているようだが、瑞穂にはすぐにわかった。よくよく見てみると、例のアンバランス男の方をチラチラと見ており、何か張り詰めた雰囲気をかもし出している。どうも、アンバランス男を尾行しているようだ。

「何でこんなところに?」

 瑞穂は疑問に思いながら呟いた。ここは滋賀県である。当然、管轄は滋賀県警であり、京都府警の中村警部がいるのははっきり言って場違いである。かと言って、声をかけられそうな雰囲気でもない。

 と、向こうも瑞穂に気がついたらしく、その顔が一瞬驚愕にゆがむ。が、そこはさすがにプロで、すぐに元の表情に戻ると、そのままさりげない様子でアンバランス男を尾行し続ける。アンバランス男はさっきまで瑞穂がいた柱の辺りで足を止めると、イライラしたように時計を見つめている。

「何か事件なのかな」

 瑞穂が訝しげに思ったときだった。

「ちょ、ちょっと。こっちへ!」

 不意に後ろから声をかけられた。振り返ると、中村より幾分若いスーツ姿の男が瑞穂の袖を引っ張っていた。

「三条警部補?」

「シーッ!」

 若い男……中村同様、京都府警捜査一課所属の三条実警部補は口の前で指を立てて静かにしろとジェスチャーすると、アンバランス男の視界から隠すように駅員室の方へ瑞穂を引っ張っていった。そこにはさらに二人ほど背広姿の目つきの鋭い男……おそらく刑事だろう……と、緊張した顔の駅員らしき人物がいた。

「どうして君がここに? まさか、また榊原さん絡みで何かあったのかい?」

「い、いえ。大津の親戚からの帰りですけど……」

 それを聞いて、三条は何か安堵したような当てが外れたような、何とも複雑なため息をついた。

「そ、そうか……榊原さんは関係ないのか」

「はぁ、まぁ」

「君がいたから思わずまた何かあったのかと」

 瑞穂は少しムッとした。

「それは失礼じゃないですか? まるで私が疫病神みたいじゃないですか」

「すまない」

「それより、どうして京都府警の中村警部や三条警部補たちが大津駅にいるんですか?」

 三条は少し言いよどんだ。

「いや、さすがにそれは部外者に言えないんだがね」

「巻き込んだのはそっちじゃないんですか? 今回、私何も関係ないですよね?」

 瑞穂はジトッとした目で三条を見る。

「いや、あのままじゃ君が私や中村警部に話しかける危険があったからやむなくね」

「私だってそのくらいの分別はありますよ」

 瑞穂は頬を膨らませる。

 と、三条の無線がなった。

『中村より各員。対象に動きあり。対象は再び改札を抜け、京都方面ホームに移動中。各員、周りを警戒しながら尾行を続けろ』

「了解!」

 三条は鋭く叫ぶと、

「君はここにいて!」

 と叫んで、駅員室から飛び出していった。

「一体、何なんですかぁ!」

 わけもわからずほとんど一方的にトラブルに巻き込まれた瑞穂は、駅員室で叫んだ。


「娘が誘拐されたんです!」

 京都府警通信指令センターにそのような一一〇番通報が入ったのは、昨日、すなわち八月十六日午後六時ごろのことだった。

 被害者氏名・石倉幸子。京都駅前にある金融会社『石倉金融サービス』社長・石倉元治の娘で幼稚園児。左京区の自宅付近にある公園で友人数名と遊んでいた幸子を迎えにいった元治の妻・立江が、公園で遊んでいるのが友人二人だけであるのを見つけ、慌てて事情を聞くと知らない人に連れて行かれたと証言したため、誘拐の可能性が浮上。その直後、石倉金融サービスにボイスチェンジャーか何かで声を変えた第一の脅迫電話が入った。

『娘を預かっている。返してほしければ使い古しの一万円札で一千万円を用意しろ。詳しくはまた連絡する。警察には知らせるな』

 一方的にそれだけ言うと通話は切れた。とはいえ、今のご時勢にこの手の脅迫を受けて警察に通報しない人間はいない。石倉社長はすぐさま警察に通報。京都府警捜査一課の捜査員たちがすぐさま石倉金融サービス及び左京区の石倉宅に急行し、ほぼ同時刻に京都府警本部長は報道協定を締結。京都府警総出の誘拐事件に対する対応がなされることになった。

 金融会社社長という絶好の金蔓に対して要求した金額が一千万円というのはあまりに少なすぎるのではないかと捜査員たちは少々疑問に思ったが、それゆえ用意するのもたやすく、石倉はその日のうちに翌日の取引のために用意していた金のうちから一千万円を用意した。とはいえ、さすがに全ての札番号を控えるのは無理なため、誘拐事件の為に府警本部が常に配備している特殊なインクの塗られた誘拐専用の身代金が使用されることとなった。同時に、府警本部では石倉社長やその妻・立江に恨みを持つ人間の捜査が始まり、現場で実際に捜査する捜査員と犯人の正体を探る捜査員、二手に分かれての捜査がスタートした。とは言え、何しろ人の恨みを買いやすいのが金融会社である。捜査対象者の数が莫大なものに及ぶ事は容易に予想され、取引前に犯人が発覚する望みは極めて低いものと考えられた。また、万が一単に金目当ての全く関係ない人間の犯行ならこういった周辺捜査は全くの無駄なのである。

 その後、誘拐犯の連絡は入らなかったが、翌日の午前十時になって石倉金融サービスに第二の脅迫電話が入った。

『午前十一時までに金を持って地下鉄烏丸線烏丸御池駅の男子トイレの一番奥の便器の裏を見ろ。後の指示はそこに書いてある。目印になるように何か派手なキャリーバッグに金を詰めておけ。取引がうまくいけば、子供の命は助けることを保障する。警察が代わりに受け渡し人になろうなど考えるな。家族の顔は覚えている』

 今回も一方的に告げた上ですぐに通話は切れた。すぐさま逆探知が成功し、通話が携帯からによるものであること、その発信が京都駅構内からである事が判明した。

 捜査員がすぐに駆けつけ京都駅構内を捜索した結果、二番ホームのベンチの下に携帯電話と先ほどの脅迫電話と同じ内容が記録されたボイスレコーダーが転がっているのが見つかった。ボイスレコーダーに吹き込んだ声を携帯に聞かせていただけらしい。

「どうやら、逆探知のことまでしっかり考えていたようだな」

 駆けつけた刑事の一人がそう呟いた。

 相談の結果、犯人が石倉夫婦のことを知っている可能性が高いと判断できることから、要求通り石倉社長が身代金一千万円を運ぶ事が決定。たまたま事務所にあった某遊園地のキャラが描かれたキャリーバッグに金を詰めると、午前十時半を過ぎたころになって、石倉社長は京都駅近くの事務所を出ると、指定地の地下鉄烏丸線烏丸御池駅に向かった。


 午前十一時少し前、中村は烏丸御池駅の改札の前にいた。犯人の要求を受け、すでに捜査員の何人かが烏丸御池駅に先回りしている。問題の石倉社長はまだ到着しておらず、駅構内にもおいても、少なくとも中村の見ている範囲で怪しい人間はいない。

「こちら中村。現時点で警戒すべき人間はおらず」

 小型ラジオに偽装した無線で中村は通信を送る。

『こちら三条。現在竹田行ホームにて待機中。間もなく反対の国際会館行ホームに対象の乗る電車が到着します』

「了解」

 やがてホームの方から音がすると、乗客が階段を上がってきた。その中に、一際目立つキャリーバッグを持った石倉社長の姿が見えた。中村は無線の対象を切り替える。石倉社長も小型の無線機とイヤホンをつけており、小さく小声で話すことでこちらに伝わり、こちらの指示も石倉に伝わる仕組みだ。石倉は一瞬中村の方を見たが、すぐに緊張した表情で指示のあったトイレに向かう。

「対象が目標地点に向かった。各員、周辺を警戒せよ」

 中村が捜査員に指示を飛ばす。無論、捜査員がトイレに入るようなリスクを犯すことはできない。したがって、中村は周囲を警戒しながらさも待ち合わせをしているかのようにトイレの入り口を見張っている。

 と、無線が入った。

『け、刑事さん。指示のあったトイレの便器に張り紙がしてあったぞ』

「内容を聞かせてください」

『「午前十一時三十五分にこの駅を出る東西線の電車で三条駅まで行け。三条駅に着いたらブックアウト三条店三階の画集の棚を調べろ」とのことだが』

 ブックアウト三条店とは京阪三条駅の真上に建つ三階建ての古本屋だ。

「わかりました。では指示に従ってください」

 問題の電車まで三十分以上時間がある。少なくとも、それだけの時間同じ人間が同じ駅にいるのは不自然だろう。刑事の尾行をまく典型的な手段だ。

「全捜査員に連絡。犯人は対象の移動を指示。三十分後に三条駅。ブックアウト三条店に捜査員を。三条はそのまま京都駅に向かえ。それと、交代の捜査員をよこしてくれ」

『了解』

 中村は連絡を終えた。すでにホームにいる三条をそのまま三条駅に向かわせるわけには行かない。したがって、そのまま京都駅に向かわせるしかなかった。自身もいつまでもここにいるわけにもいかないので、交代要員が来次第三条京阪駅に向かう予定である。

「これは引き回すパターンか」

 中村は小さく呟いた。

 誘拐事件における身代金受け渡しは、犯人側にとっても警察側にとっても緊張の一瞬である。何しろ犯人が自ら警察に接触する瞬間なのだ。下手をすれば自ら捕まりにいくようなものであり、警察にとっても犯人を逮捕する最大の好機である。それゆえ、犯人としても最大限に知恵を絞って警察から逃れようとする。

 典型的なパターンは二つ。一つは受け渡し人を徹底的に移動させ続けて警察の尾行を振り切るというもの。もう一つは電車から投げ捨てさせるなど物理的に追跡が不可能な方法を取ることである。が、前者は事実上一つの都道府県警の捜査員全員を相手にすることになる現代の日本の誘拐捜査においてはほとんど意味を成さず、後者も昔に比べて発達した検問体制を敷かれれば高確率で捕まってしまう。日本の警察の検問体制のレベルの高さは諸外国に比べても非常に高く、特に高速道路に逃げ込んだらインターチェンジを全て押さえられてほぼ確実に捕まるといわれるほどだ(したがって、犯罪者は高速道路に逃げ込むのを極力避ける傾向がある)。

 どうやら今回の犯人は、前者の引き回すパターンで警察に挑むつもりのようである。

「やぁ、待ちましたか?」

 ふと顔を上げると、捜査員の一人がいかにも待ち合わせに来たといわんばかりの口調で中村に近づいてきた。その後ろから、別の捜査員……石倉社長の見張りの交代要員が無関係を装いながら歩いてくる。

「ああ、行こうか」

 中村は近づいてきた捜査員と共にさりげなく東西線のホームに向かった。


 午前十一時四十五分。石倉が乗った車両が三条駅に到着した。

「ブックアウト内の状況は?」

『現在、各階に私服捜査員を二名ずつ配置していますが、人が多くてどうとも言えません』

「監視カメラはあるな?」

『すでに店側と交渉して押収の許可をもらっています』

「了解」

 さすがにさっきまで駅にいた中村が店の中に入るわけにはいかない。したがって、店の外、京阪三条駅改札前からの指示である。

 と、石倉が東西線の出口から姿を見せ、ブックアウト店内に入っていく。

「対象が店に入った。三階に向かっている」

『了解』

 中村は石倉の通信機に切り替えた。

「そのまま三階の画集の棚に向かってください」

『わかった』

 しばらく通信が途切れる。それから十分ほどたっただろうか。石倉から通信が入った。

『棚の裏にまたメモがあった。「午後〇時三十分に京阪三条駅を出る京阪線で稲荷駅へ向かえ。その後、龍泉大学伏見キャンパス東側の道路沿いの植え込みを調べろ」。以上だ』

「わかりました。私はいったん離れますので、これからしばらくは前もってお伝えしておいた第二の番号に連絡してください」

『わ、わかった』

 通信を終えるとすぐさま中村は指示を出す。

「今度は龍泉大学だ。私はこのままいったん東西線で京都駅まで逆走する。しばらく任せる」

『了解』

 さすがに同じ人間が連続して取引現場に出没するわけにもいかない。中村は京都駅に引き返すことにした。

「しかし、どうしてこんなに間を置く?」

 中村は不思議そうに呟いた。逆探知を避ける為にメモで連絡を取るというのはある種合理的である。だが、それにしても指示と指示の間にあまりに時間がありすぎる。平均三十分以上の余裕があるのだ。まさかこの程度の焦らしで警察が諦めるとは思ってもいないだろう。むしろ、時間が開く分警察に時間を与えてしまうはずだ。これは単にメモ発見の時間に余裕を持たせているというだけなのだろうか。

「何が狙いだ?」

 中村は自問自答した。

 と、三条から連絡が入った。

『こちら三条。現在京都駅で待機中』

「私も今から京都駅に向かう。被疑者の割り出しは?」

『芳しくありませんね。管理官が中心になって調査しているんですが、リストの人間だけでも何百人といますから』

 状況は五分五分といったところらしい。中村は首を振って改札に向かった。


『対象が龍泉大学東側道路沿いの植え込みよりメモを発見。午後一時十五分までの烏丸線くいな橋駅への移動を要求。移動後、ホームの自動販売機横を見よとのこと』

「了解」

 午後〇時五十分。京都駅の中央口で三条と合流した中村はその後の展開を聞いていた。

「また烏丸線ですか?」

「どうも、ぐるりと一周してここに戻ってくるかもしれない」

 京阪稲荷駅と烏丸線くいな橋駅は徒歩で約二十分の距離である。

「典型的な引き回しパターンですね」

「ああ」

 すでに第二の脅迫電話から三時間あまり過ぎようとしている。

「確か、第二の脅迫の電話はこの駅で見つかったんですよね」

「ああ。回収されたボイスレコーダーと携帯電話は遠隔式ではないから、脅迫電話の際にやつが京都駅に一度現れているのは間違いない」

「でも、どうしてあんな手の込んだことをしたんでしょうか?」

「単純に考えて、逃げる為としか思えない。あの方法ならスイッチを入れてから逃げるまでに時間ができるからな」

 中村は考え込んだ。この犯人、メモの件といい徹底的に逆探知を警戒しているのか目に見えてわかる。そういう点で、よく研究している犯人といわざるを得なかった。

「三時間ともなると、石倉社長もかなりイライラし始めているころか?」

「受け渡し人の精神的動揺を誘っているということでしょうか?」

「なんにしても、ここまで引き伸ばす犯人というのも珍しい」

「犯人、今までの場所にいたんでしょうか?」

「どうだろうな。メモなど前日にでも張っておけば済む話だ。あの様子じゃ明らかに今までの場所で受け取る気はないようだし、犯人はいなかったと見たほうがいいのかもしれないが」

 と、通信が入った。

『該当所より対象が新たなメモを発見。国際会館行車両での京都駅下車を要求。下車後、東地下改札口横のトイレの掃除用具入れを覗くよう指示。到着予定午後一時二十分。応援頼みます』

「了解」

 中村は三条を振り返った。

「やはりこっちに帰ってくるぞ」

「結局、三時間半かけて元の場所に戻っただけですか」

「だが、その分これからが本番かもしれない」

 中村は表情を引き締めた。


 午後一時二十分、石倉社長が疲れた表情で地下鉄の改札を抜けるのを中村と三条は見ていた。

「問題のトイレは改札の内側ですよね」

「ああ」

 見ると、石倉社長は適当に切符を買って改札を抜け、そのままトイレに入った。中村と三条もあらかじめ買っておいた切符(どこまで行くかわからないので最大料金の切符である)で改札に入ると、トイレ近くのキオスクで立ち読みするふりをしてトイレの出入りを見張っていた。入っていく人間の中に捜査員が一人混じっている。

 しばらくして、石倉社長は困惑した表情でトイレから出てきた。手には小さな紙袋を握っている。

「今までとは違う指示が出たみたいですね」

 三条が小声で隣の中村に言う。と、石倉からの通信が入った。

『紙袋があって、中にテープレコーダーとイヤホンが入っていた』

「テープレコーダーとイヤホンですか?」

『同時にメモも添えられていて、「午後一時五十二分発の野洲行電車に乗れ。乗ったらすぐにこのテープを聴け」とある』

 中村はしばし考えた後、

「乗る車両は指示してありますか?」

『いや』

「では、前から三両目に乗ってください。あとは指示通りに」

『刑事さん、これは一体いつ終わるんだ? こんなことして本当に娘は帰ってくるんだろうか? 犯人に馬鹿にされているのではないのか?』

 石倉が疲れた声で聞いた。極限の緊張状態を三時間半あまり続けているのである。疲れて当然である。

「残念ですが、ここは犯人の指示に従うしかありません」

『……わかっている』

 通信が切れる。中村はすぐに時刻表を確認し、石倉より先に電車が発着する二番ホームに上がった。

「野洲行の電車か」

「場合によっては滋賀県警への要請が必要ですね」

 三条が苦々しげに言う。

 京都から滋賀県へ向かう路線は琵琶湖西岸を走る湖西線と琵琶湖東岸を走る琵琶湖線に京都駅の隣駅である山科駅で分岐し、琵琶湖の一番北にある近江塩津駅で合流する仕組みだ。野洲駅は滋賀県東部の真ん中辺りに位置する琵琶湖線の駅で、近くに車両基地があるため滋賀県北部にある米原駅や長浜駅共々に滋賀方面へ向かう琵琶湖線列車の終点として機能する事が多い駅だった。ちなみに、京都から野洲駅までだいたい四十分、米原駅まで役一時間半であり、これらの駅に到着した電車は車両基地にいったん引いた後、一~二時間後に今度は下り線として再び京都・大阪方面に向かうことが多かった。

 この状況は警察にとってもなかなか不利な展開である。誘拐事件は一つの都道府県警が総力を結集して行う。したがって誰か一人でも警官に見つかったらその時点でアウトである。が、これが他県にまたがるとどうしても手続や管轄などで連帯に齟齬が生じてしまう。そこに隙ができてしまうのだ。受け入れ態勢が間に合わず、他県警職員全員に誘拐捜査の指示が通達される前に犯人が逃げ切ってしまう可能性が出てきてしまう。身代金奪取の際のリスクが小さくなるのだ。

「よく考えている。我々の捜査の弱点をしっかりつかんでいる。だが、相変わらず余裕がありすぎるな」

「三十分もあれば充分滋賀県警への通達も可能です」

「切れるのか抜けているのかわからない犯人だ」

 中村はすぐに本部に連絡を取り、続いて捜査員全員に通達した。今回はテープを聴くまでどこで降りるかわからないので、先回りができない。同時に、どれだけ相手も本気だと予想された。

と、石倉もホームに上がってきた。中村と三条は互いに離れ、無関係を装いながら石倉を尾行する。

「この後、午後一時半に長浜行新快速。三十六分に米原行普通電車か」

 滋賀方面に向かう普通の客ならこのどちらかに乗ればいい。一本遅い五十分初の電車を指定したのはやはり尾行を確認する為なのだろうか。

 ただ乗り過ごすと怪しまれる可能性があるので、二人はホームにある立ち食い蕎麦に立ち寄ると、注文して蕎麦を食べることにした。が、目はしっかり石倉を睨んでいる。中村は石倉に何か食べるよう指示を出し、石倉もキヨスクでおにぎりを買うとそれを食べているようだ。が、食欲はなさそうである。

「ここからが勝負だな」

 やがて午後一時五十分。問題の電車は定刻通り京都駅に滑り込んだ。


 午後一時五十分京都発野洲行普通電車のドアが開くと同時に乗客が吐き出された。それが収まると、待っていた客たちが乗車していく。緊張した表情の石倉がまず三両目の真ん中に乗り、続いて中村と三条がそれぞれ車両の前方と後方に分かれて乗り込む。他の刑事たちも何人か他の車両に乗っているはずだ。さすがに西日本のターミナル駅である京都駅だけあって、昼時にもかかわらず下車する人も乗車する人も相当な数になり、少し気を抜くと見失ってしまいそうになる。

 やがてドアが閉まり、電車はゆっくりと発車していく。最初、鴨川を越える辺りまではゆっくりとした速度だが、それを超えると速度が上がり始める。

『次は山科、山科です』

 車内にアナウンスが流れる。

 さて、京都駅から電車が出ると同時に、石倉は紙袋から問題のカセットレコーダーを取り出すと、耳につけた無線用のイヤホンをためらうように外して問題の中身を聞き始めた。が、その顔に戸惑いが浮かんでいる。

「まずいな。無線が通じない」

 中村は軽く舌を打った。無線のイヤホンを外しているがゆえにこちらから指示を出すことも、逆に向こうから内容を伝えさせることもできない。そこまで考慮に入れてやっているとすれば、これを仕組んだ相手は相当な人間である。

 やがて電車はトンネルに入り、轟音が車内に響き渡る。中村は電車の窓を見た。この電車は最新式の車両らしく、窓も一部の窓が非常時に半開き程度しか開かないようになっている。したがって、車内から外へ投げ出すというパターンは使えそうになかった。

 やがて電車はトンネルを抜け、湖西線と琵琶湖線の分岐点である山科駅に到着する。が、石倉に動きはない。この電車は琵琶湖線行で、この次は大津である。つまり、予想通り滋賀県警の管轄に入ってしまうのだ。すでに京都府警本部長権限で滋賀県警に通達は済んでいるはずなので、あちらとしてもすぐに対応してくれるだろうが、降りる駅がわからないのであまり当てにすることはできない。

 やがて電車は山科駅を発車した。石倉はまだイヤホンを外そうとしない。

「長いな」

 中村は少し奇妙に思った。が、すぐにトンネルに入り、再び轟音が響く。と、不意に石倉が辺りをキョロキョロと見回し始めた。

「何だ?」

 聞きたくても無線のイヤホンがついていないのでどうしようもない。よしんばついていたとしてもと、このトンネルの中では電波が乱れて通じないはずだ。そうこうしているうちに、電車はトンネルを抜け、そのすぐ先にある大津駅に停車した。

 その時、突然石倉が人を掻き分けてホームに飛び出した。中村と三条も慌ててホームに飛び出す。同時に無線で他車両の刑事たちにも連絡しようとするが、トンネルを抜けたばかりで電波の入り具合が悪いのかうまく通じず、かろうじて石倉の姿を見つけた二~三人が何とかギリギリ降りることに成功した程度で、後の刑事は間に合わずに電車と共に発車してしまった。

 中村たちが呆然としていると、先を歩く石倉がイヤホンを無線のものと取り替えた。さっそく事情を聞く。

「何があったんですか?」

『最初五~六分はわけのわからない音楽が入っていた』

「音楽?」

『何でも、音楽の最後に次の指示を入れておくとのことだった。早送りも音量調節もできないように細工してあったようで、大音量で音楽を聴かされ続けたよ。まったく、うるさくて頭が痛い』

「それで?」

『大津駅直前でやっと何かの合成音で指示の内容が流れた。大津駅で降りて、改札を出た後その前で二時二十分まで待て。その時間になったら駅の観光案内パンフレットのスタンドの裏を調べろ、とのことだ』

 トンネルのことといい、明らかに刑事をまく為の手段である。つまり、犯人もこれからが本番と踏んでいるに違いない。

「合成音という事は?」

『ああ、誰の声なのかはっきりしなかった。わしに聞かれて困る声の持ち主なのかもしれないな』

 さすがにその辺りは考えているようだ。

「では、改札を出てください。私も後から続きます。今回は刑事をまくそぶりを見せていますから、おそらくこれからが本番です」

『わかった』

 無線は緊張したような声で終わった。中村は三条らを石倉より先行させ、自身は石倉の後をしっかり尾行して行った。大津駅は湖西線などでよく見られるようないわゆる天井駅で、二階部分がホームで一階に改札や出入口がある造りをしている。したがって、ホームから改札に行くには階段を下りることになる。石倉は大きなキャリーバッグを重そうに持ちながら階段を下り、中村もそれに続いた。

 下に降りると、石倉はキャスターを転がしながら改札に向かい、そのまま緊張した表情で改札を出た。中村もその後に続いて、改札前にいる人間を注意深く見渡した。

 その時だった。突然よく見知った顔が飛び込んできた。

「なっ」

 思わず小さな声を漏らす。切符売り場の前辺りに、一人の女子高生が立っていた。

 深町瑞穂。東京の私立探偵・榊原恵一の自称弟子で、昨年京都で発生した殺人事件を榊原が解決した際に同行していたのを中村は覚えていた。言うまでもなく東京の人間であり、こんな場所にいるはずがない。当の瑞穂も、中村の顔を見て驚いた表情をしている。と、同時にかなり目立つ石倉のバッグにも訝しげな表情をしているようだ。

「まずい」

 中村は小さく舌を打つと、無線で三条に連絡を取った。

「何でこんなところにあの子がいるんだ!」

『私にもわかりませんよ』

「まさか、また榊原さん絡みで何かあったんじゃないだろうな」

『どうでしょうか』

「とにかく、このまま声をかけられたら厄介だ。いったん保護してとりあえず駅員室で事情を聞いてくれ」

『は、はぁ』

 すぐに三条が周りに気づかれないように瑞穂を駅員室に引っ張っていく。と、そうこうしているうちに時間になったようで、石倉が観光パンフレットの置かれているスタンドに歩み寄ると、調べ始めた。

 しばらく調べていると、スタンドの裏に何かを見つけたらしい。どうやら今度はメモのようだ。が、それを読んだ石倉の表情が曇る。何事かと思っていると、石倉からの無線が入った。

『「午後二時三十五分大津発姫路行新快速電車最後尾車両に乗車せよ。乗車後の指示は乗り込み口近くにカセットレコーダー設置済み。ただし、今回は電車到着までに聴いておくこと」とある』

 今度は京都方面に戻れという指示である。おまけに乗る車両は新快速電車で、三十分もあれば大阪に突入してしまう電車である。乗り過ごした刑事たちが戻ってくる時間もないし、今度は大阪府警への通達が必要になるかもしれないのだ。

「警察の捜査の穴を徹底的に突くか」

 中村は難しい表情をする。おまけに、今までと違って今回は時間がほとんどない。電車到着まで後十分程度しかないのだ。

「急いで指示にしたがってください」

『わかっている!』

 石倉も焦ったように切符を購入すると、改札を抜けて再びホームに向かった。中村も後に続く。他人から見れば明らかに不自然な行動ではあるが、今回は他の捜査員を待っている時間的余裕などない。やむをえない決断だった。

「中村より各員。対象に動きあり。対象は再び改札を抜け、京都方面ホームに移動中。各員、周りを警戒しながら尾行を続けろ」

『了解!』

 無線の向こうから三条の声がする。やがて、後方から三条が追いつき、そのままそ知らぬ顔で中村を追い越していった。

「あの子は?」

「駅員に預けています。どうやら、榊原さんは関与していないようで、本当に偶然のようです」

 追い越す瞬間、簡単に状況を報告する。

 ホームに出ると、石倉はすでに問題の乗り込み口……最後尾車両が到着する矢印の前に立っていた。ちょうど屋根が途切れた場所で本来なら日があたる場所なのだが、駅舎の後ろ、すなわち南側にマンションかホテルらしきが建っているせいで日光は当たっていない。今は昼時ゆえに最後尾の辺りには彼以外人影はない。むやみに近づくと警戒されるかもしれないと考え、中村と三条は二両ほど前方の別々の乗り込み口に分かれて様子を伺った。

 石倉はキャリーバッグを傍らに置くと、ちょうど屋根の切れ目辺りの柱の影に何かを見つけた。再び小さな紙袋に入ったテープレコーダーらしきものである。時間が迫っていることもあって、石倉はすぐに無線のイヤホンを外してテープレコーダーのイヤホンをつけた。

『あと五分で電車が着きます』

 無線の向こうから三条が告げる。と、やがて線路の向こうから銀色の車両が緩い右カーブを曲がりながらこちらに向かってくるのが目視できた。

「まだ指示は終わらないか」

 中村がイライラしたように言う。石倉は未だにカセットのイヤホンをつけたままで熱心に内容を聞いている。電車がホームに迫る。彼の周辺に人影はなく、何か起こるとはとても考えにくかった。

 その時だった。予想もしなかった事が発生した。

 耳を劈くような轟音が駅舎全体に響き渡ったのである。

「何だ!」

 中村は思わず叫んだ。が、駅舎内に異変らしきものはなく、音の正体がわからない。

「警部!」

 と、突然三条がホームの南側を指差した。中村は指差されたほうを見て、そしてそのまま固まってしまった。


 駅舎の南にあるマンションかホテルらしき建物の非常階段。建物と一体化しているものではなく、いわゆる壁にへばりついている形式の螺旋階段なのだが……。

 その螺旋階段が土煙を上げながら建物の壁からはなれ、ゆっくりと駅舎向かって……正確には石倉がいる辺りに向かって倒れようとしていたのである。


 次の瞬間、駅舎内に悲鳴がこだまし、客たちが逃げ始めた。

「石倉さん!」

 中村が叫ぶ。が、これだけの騒ぎにもかかわらず石倉は動く様子がない。

「まずい! 気がついていない!」

 螺旋階段は石倉の背後、完全に死角の部位から襲いかかろうとしていた。さらに響き渡る轟音もイヤホンの音声に集中していて全く聞こえていないらしく、影もそもそも最初からマンションで影があったため変化がない。おまけに警察の無線も外してしまっている。石倉は、背後から迫る死神に気がつく事ができない体勢にあったのである。

『大音量で音楽を聴かされ続けたよ。まったく、うるさくて頭が痛い』

 先ほどの石倉のセリフが中村の脳裏に浮かぶ。まさか、あれはこのための伏線だったのでは……。

「逃げてください!」

 中村が叫ぶ。が、その声は届かない。同時に、進入しようとしていた新快速電車が甲高いブレーキ音を上げる。が、倒壊予想地点はホームの米原側、すなわち神快速電車から見れば一番手前。とても止まりきれるものではない。

 中村は石倉の元へ走り出した。が、間に合うものではない。ここにいたって、ようやく石倉も何か感じたのか、後ろを振り返り、そのまま硬直した。

 それが中村の見た石倉の最後の姿だった。


 次の瞬間、螺旋階段は石倉ごと大津駅のホームを跨ぐような形で倒れ、送電線を引きちぎりながら凄まじい轟音と土煙を上げた。ほぼ同時に、甲高いブレーキ音が途絶え、速度を落としきれなかった姫路行新快速電車が線路を塞ぐ金属製の螺旋階段に正面衝突する破壊音が土煙の向こうから響き渡った。通常、送電線が切断されれば電車は自動的に停止するが、それすら間に合わないほど電車と螺旋階段は接近しすぎていたようだ。怒号と罵声が電車のあると思しき辺りから響き渡る。

「畜生!」

 石倉のいた場所まであと数十メートルの場所で中村が叫ぶ。と、今度は反対側のホームで甲高い音が響いた。京都方面から進入していた米原経由敦賀行新快速電車である。螺旋階段は駅の端から端までを通せんぼする形で塞いでおり、反対側のホームの車両もこのまま突っ込めばこちらもただではすまない。が、米原行の電車からすれば螺旋階段が横たわっているのは先頭車両の位置であり、すでにかなり速度を落としていたこちらの車両は、送電線が切断されていたこともあって螺旋階段のはるか手前で安全に停止した。米原行の車内の乗客が恐怖に満ちた表情で前方を見据えている。

「県警と救急車だ! 急げ!」

 中村が叫んだ。こうなったら誘拐捜査どころではない。土煙が晴れていき、螺旋階段の辺りに駆け寄ると、その向こうから完全にへしゃげた先頭車両が姿を見せた。運転席は完全に螺旋階段と後続車両に挟まれてつぶれており、運転手らしき手がその隙間から覗いているが全く動く気配がない。

 駅進入間近の正面衝突ゆえ、不幸中の幸いというべきか大規模な損傷は先頭車両のみで押さえられ、二両目以降は原形を保っている。が、それでも二両目の先頭の車輪は脱線しており、急停車で怪我をしている人間がまだまだいるようだ。

 呆然としていると、不意に何かが中村の頭にかぶさった。見ると、石倉が脇においていたキャリーバッグの中身である一万円札がボロボロになって宙を舞っていた。そのほとんどが血で染まっている。中村は唇を噛み締めた。鉄骨で遺体は確認できないが、石倉がどうなったのか確認するまでもなかった。

 と、向こうから車掌と思しき男が走ってきた。思わぬ惨状に少々唖然としているようで、二両目の辺りで立ち尽くし、

「ひ、人が……下敷き……」

 などとうわ言を言っている。

「おい!」

 中村は鉄骨越しに車掌に呼びかけた。それで車掌が我に返る。

「救助作業だ! 急げ!」

 その後、駅員やその場にいた客たちも駆けつけ、さらに反対側のホームに無事停車した米原行新快速電車の乗客の何人かも駆けつけ、大規模な救助作業が行われようとしていた。


 その瞬間、深町瑞穂は駅員室で拗ねたような表情をしていた。

「あーあ。これで電車乗れなくなっちゃったなぁ」

 耳を立てると、乗る予定だった新快速電車が入線する旨のアナウンスが鳴り響いている。

「と言うか、警察の人を知っていた程度で足止めって、どんな理不尽な話なんですか!」

「まぁまぁ」

 一人監視役に残った刑事がなだめる。

「これで新幹線キャンセルですよ。どうしてくれるんですかぁ」

 確かに少し気の毒だったかなというような表情を刑事がした瞬間だった。

 突然轟音と共に駅舎全体が揺れた。

「キャッ!」

 思わず瑞穂は頭を抱えて床にしゃがむ。刑事と駅員は何事かと辺りを見渡す。同時に、振動で破壊されたと思しき細かい破片が天井から少し落ちる。

「地震か?」

 刑事が呻くように言う。

「でも、地震ってこんな一瞬なものなんですか?」

 揺れは激しかったが、一瞬で終わった感じだ。地震なら初期微動と主要動があることくらい、瑞穂も中学の授業で知っている。

 と、突然頭上で甲高い金属音が響いた。

「何これ?」

「多分、電車の非常ブレーキです」

 駅員が青ざめながら言う。何か異常事態が起こったらしい。

 と、別の駅員が飛び込んできた。

「緊急事態! と、とにかく来てくれ! 人手がほしい!」

 その言葉を受け、駅員と刑事は戸惑いながらも駅員室を飛び出した。

「ちょ、ちょっと!」

 瑞穂もちゃっかり後に続く。改札の前では客たちが不安そうに天井を見上げていた。

 ホームを駆け上がると、その光景に瑞穂は唖然とした。

「な、何これ?」

 ホームの米原方向の端に、巨大な金属の筒のような物体が倒れていた。そして、瑞穂が乗るはずだった電車がその筒にぶつかって見るも無残な様相を呈していた。

 何かとんでもない事が起きたと直感した瑞穂は、一瞬ひるんだものの、すぐに乗客を助ける為にそちらへ走り始めた。

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