第一話
新年の日の朝から仕事場に向かうのは、この国の中でも私一人だろう。本音を言うとこんな時間から行きたくは無かったが、陛下からのお呼び出しとなると、宰相という立場であっても断るわけにはいかない。
我が家は代々宰相を務める家系である。初代当主は国王家の初代の最大のライバルであったが、戦に負け素直に恭順してこの職を得たとの伝説がある。数百年も前の話なので私にはそれが真実か欺瞞かは知るすべはない。
私が宰相となったのは二年前の十八歳のことだ。辣腕を振るった先代である祖父も既に老境と言っても本人以外から文句が出ない年齢に差し掛かり、突如死んで国が混乱してはいけないと、私が後を継ぐことになったのだ。本来であれば私の父の出番なのだが、既に病死していた。勿論、十八の若輩者に宰相職を任せることに対する反発もあったが、幼馴染でもある現国王イザベル陛下の推挙により反発の声は立ち消えた。
今日、いつも通りこんな早朝から私を呼び出したのがそのイザベル陛下だ。陛下は現在十七歳の見た目のみによって判断するなら大変お美しい女性だ。そして、彼女がまだ言葉も喋れない頃から遊び相手の役目を任じられていた私にとっては、口には出せないが、妹のような存在だった。
派手ではないが高級品と分かる物が配置されたこの謁見の間では、かならず王は客よりも遅れて登場する。威厳を保つためというのもあるが、王を待たせているとなると客の精神衛生によろしくないというのも実は大きな理由の一つだ。
何百年前に作られたか分からないような古臭い音楽を従えて陛下が現れた。体を動かす度に流麗に揺れる長い銀髪は、何度見ても美しい。この国を代表する川であるドゥエロ川によく例えられるのも頷ける。
「陛下、宰相フェルナンド、お招きにより参上致しました。ご用件とはいかがなものでございましょうか」
「よく来た宰相。機密に関わる話でな、少し奥まで付いて来い。機密ゆえ、誰も来てはならんぞ」
少し低めの落ち着いた声の最後の部分は私以外に向けられていた。ほぼ毎日同じようなことに参加させられる文官や使用人にとってはいい迷惑だろうが、仕事と割りきってもらうしかない。
しばらく赤い絨毯の上を進むと現れるのは応接室だ。ここは王が私的な客を迎え入れる部屋で、その性質上大きさも豪華さも謁見の間に比べると数段見劣りするが、いわゆる「丁度いい」空間であった。
「それで、陛下、機密に関わる話とか何でございましょう。もしや、またくだらない命令ではありませぬでしょうな」
「二人のときは"陛下"は止めてって言ったじゃない。まだ直してくれないのね」
「陛下のことを名前で呼べるのは他国の王か陛下の夫のみです」
「フェルが夫になればいいじゃない」
昔から彼女は私をからかうのが好きだった。この応答だってもう百回近くは繰り返されているだろう。
そして私は、祖父からある質問を頼まれていたことを思い出した。
「そういえば、陛下、国の未来に関わることゆえ失礼ながらお尋ねしますが、今現在意中の方などはいらっしゃるのでしょうか?」
彼女の目が泳ぎ、顔が赤くなるのが見える。これは期待できそうだ。
「結構なことですな。どこの王子です?オレンジ国のエンリケ王子ですか?彼はまだ二十二歳と年齢もお近くですし、文句はありませぬな。 トランスバールのフィリップ王子などは年齢こそ少々離れておられますものの、才覚高いとお聞きしております。ああ、それとも……」
「ち、ちがう……」
こんなに小さな声がこの口から発せられたのを聞くのは初めてだ。病で寝込んだ時でさえもっと元気な声であったから、私は少々焦った。
「これは失礼致しました。では、どこの国の方で?」
「どうしても言わねばならぬのか?」
「仰られれば、出来るだけご希望にそった外交と婚姻政策を展開することができます。陛下の意に沿わない政略結婚など、臣としてはできるだけ行いたくないですからな。勿論、確約はできませぬが……」
これは本音だ。こちらから、国政を左右するほど大規模な政略結婚をしかけるほどの国力と王族が無いのだから、相手から仕掛けられない限りは意思を尊重するつもりだった。
「…の国だ」
「失礼ながら、聴き逃しましたのでもう一度」
「こ、この国だ!」
こんなに大きな声がこの口から発せられたのを聞くのは初めてだ。幼い頃に私が幽霊の仮想をして夜脅かしたときでさえもう少し感情が抑えられた声であったから、私は少々焦った。
「しかしですな陛下、国内には陛下と釣り合う身分の貴族など居りませぬぞ」
だからかもしれなかった。意思を尊重するなどと言いながら、こんな不注意なことを言ったのは。