4 キツネ、戦う
「…やっと呼んだ」
綺麗な顔の男の子だった。
大きな漆黒の瞳に中途半端な長さの黒い髪。横髪だけ長く、正面から見ると女の子のようにも見える。学園の制服はきっちりと着込み隙がない。細い首に絞めている緑のネクタイから一年だとわかった。
「…えっ?」
瑤子の困惑をよそに、少年は瑤子の正面に歩み寄り、片膝をついた。
眼を軽く伏せて頭を下げ、瑤子の手を取る。
「耀の姫君」
少年は強いまなざしで瑤子の瞳を射る。至近距離で見つめられ、体がすくんだ。
「…御前の灯を以て、御身を御守りし、忠誠を尽くすと誓約する」
瑤子の台詞を待つように、少年は口を閉じた。黙られても、何を言えば、何をどうすればいいのか瑤子には全く分からなかった。見つめるまなざしは揺るがず、責められているように感じて居心地が悪い。
「許す、と。言ってください」
丁寧な語調で命令ではないものの、少年の眼には有無を言わせぬ何かがあった。
気圧され、思わず言葉を反復する。
「許す…」
少年はにこりと笑った。
瑤子がその綺麗な微笑みに心奪われている間に、少年はそのまま瑤子の手を自身の口元へと近づけた。
(えっ)
手の甲に柔らかなものがあたった、と思った瞬間のことだった。
くらりと目眩がする。世界がぼやけ、異質なものへと変化する。
清浄だった世界を覆う、透明な膜が割れてしまう――――――
硝子のようにはがれて、再び瑤子の周囲はまがまがしい空気に支配された。
同じ林の中のようではあったが、木の葉はほとんど散って、枯れかけた木が乱立し、有り得ない気味の悪い色合いで統一されていた。先ほどと同じままなのは、瑤子と、少年の二人だけだった。
「なに…?ここは、」
「ご安心ください。すぐに片づけます」
少年は瑤子の手を放して立ち上がり、林の中で男たちが立っていたあたりに視線を向けた。
そこにあったものを見て、瑤子は声にならない悲鳴を上げた。
どろりとした、暗灰色の蠢く物体。固まりかけた液体のようなその物体には、目玉が幾つかついていた。個体によって大きさや目玉の数は異なり、びちゃびちゃと音を立て、もがくように動き続ける。
それが男たちの人数分、瑤子たちを取り囲んでいた。
『欲シいぃぃぃィぃぃいぃィ…』
『ちカラ…ァかるのちかラ…』
(しゃべった…!)
喉がつぶれたような、濁った音で、呻くように物体は言葉を発した。ところどころ聞きづらかったが、確かに言葉にはなっていた。
「なんだ、あれ…」
「低級霊ですね…悪霊にも成りきれていない。姫の力に吸い寄せられたようですが、そんなに強くありませんから。あんまり怖がらなくて大丈夫ですよ」
少年は振り返って穏やかに笑う。瑤子は無意識に少年の制服の裾をつかんでいたことに気づき、慌てて手を放した。微笑まれ、先程手にキスされたことを思い出して、瑤子は顔が赤くなったのを感じた。
少年は化け物に目線を戻した。
眼に光が宿る。
光源があるわけでもないのに、はっきりとした金色の光を放つ。静かに、不気味な物体に向けて掌をかざした。
「…身の程を知れ。お前達が触れて良い様な方ではない」
掌が光を放った。
暖かな、橙の光。少年が掌を上に向けると、その上にはもえさかる炎があった。
少年が腕を軽く振ると、眼にもとまらぬ速さで火球が炸裂して化け物に火が付いた。濁った短い悲鳴が上がったかと思うと、燃え尽きて白い灰となる。
全ては一瞬の出来事で、瞬きする間に灰も消滅してしまった。
少年が瑤子を振り返ると、そこはもう普段の林の中であり、足もとには落ち葉が広がっており、青空は雲一つなく高かった。
遠くで鳥が鳴いており、のどかな秋の気配さえ感じられる。
今のはすべて夢ではなかったかと思うほど、何事もなく、いつも通りの平和な風景だった。
ただ一つ見慣れぬのは、目の前に立つ奇妙な少年のみ。
少年の瞳は既にもとの黑に戻っていた。目を細め、口角を上げて優しく微笑む。
「ご無事で何よりです。姫」
××
「さ、家へ帰りましょうか」
落ち葉の上にぺたりと座り込んだままの瑤子に、少年はしゃがんで目線を合わせた。
瑤子はたった今見た信じられない光景にまだ混乱しており、今すぐ説明がほしかった。
「い、今の…今のなに?変な場所になったり!手から火出したりっ!あっ、先輩たちは!?君はどこから現れた!?」
「変な場所は次元の一つ向こう側で、手から出した火は狐火です。先輩たちは霊が姿を借りていただけで本人たちに実害はありませんから、ご安心ください」
それを聞いて、瑤子は少しほっとした。消えてしまったので、どうしようかと思っていたのだ。
しかし。
欲しかったのはそういう説明ではない。額面通りに、淡々と答える少年に、瑤子は勢い込んで言っただけに脱力した。
「…なんで掌から火が出るの…」
(ていうかこの人は誰なんだろう。なんでいきなり現れたんだよ。姫って…意味がわからない)
少年は少し考えて、おもむろに口を開いた。
「説明が長くなってもいいですか?すぐには信じてもらえないと思いますが」
少年にも瑤子に説明する気があるのだとわかり、瑤子は頷いた。どんなおかしな話でも、聞かずにこのまま帰るわけにもいくまい。
少年は瑤子の正面に正座で座りなおす。
「姫は、御先祖様のことをどこまでご存知ですか?」
「ちょっと待て、話の腰を折って済まない。まずその姫とはなんだろうか」
少年は瑤子のことを姫、とか耀の姫君、だとか呼んでいた。訊けるような状況でなかったために何も言わなかったが、本当はずっと気になっていた。
「それもご説明致します。そのために、確認しておきたいことがあるんです」
いったいどこから、しかも何を話すつもりなのか、と半ばあきれながら、少年が黙ってしまったので、瑤子はあきらめて口を開いた。
「…四百年以上も前から、続いている家だとは、聞いたことがある。昔はこの辺一帯を治めていたとか」
「はい。…それも、ただの地主でないということは?」
宗田家は剣道場をやっているが、もともとは武士の血筋というわけではなく、この土地の豪農だったと言う。かなり栄えていたそうだが、戦後の農地改革で多くの土地を失い、今では農業にさえ携わっていない。剣道場は戦後からのものだ。
瑤子の知っている限りでは、宗田家は「ただの」地主のはずだった。
「…意味がよく分からない」
「では、最初から説明した方がよさそうですね。姫の家と、狐の話から」
「きつね…?」
それは『日本昔話』によくあるパターンの話だった。
貧しい農民が動物を助け、その恩返しに贈り物だったり、億万長者にしてもらったり、綺麗なお嫁さんを貰ったり、というような。例えば、鶴の恩返しとか、舌切り雀とか、笠地蔵とか(動物じゃないけど)。
少年はたとえに「逆きつね女房ですよ」と言ったが、瑤子はその昔話を知らなかったので、あまりぴんとはこなかった。もちろん大体は題名から想像はついたのだが。
少年の話をまとめると、その昔、まだ貧しかった宗田家の娘は、不思議なものを見、心霊の声を聴くことができる力の持ち主で、彼女が狐の神様(少年はみけつのかみがと言っていたが、瑤子が理解できなかったのを見て言い直した)を助けたことで、その恩返しに狐の神が宗田の家に婿入りし、そこから宗田の家は繁栄したのだと言う。
「稲荷大明神って、あるでしょう。赤い鳥居の」
確かに、この山のふもと――――瑤子の家の近くには古い稲荷神社があった。このあたりの氏神である。
「狐の神様って、つまりお稲荷さんのことか」
「その派生ではあるんですけど。そのものではないです。お稲荷さんは白狐ですから」
少年が「逆」というのは昔話と性別が反対だと言う意味らしい。時折よく分からない単語や説明があったが、瑤子はとりあえず聞き流すことにした。いちいち聞いていたらちっとも話が進まない。
「お稲荷さんは農業を司る神様ですので、その派生である神が降りたことで、宗田の家は繁栄しました。それが姫のご先祖様―――初めに神様を助けた少女の名は「耀」といい、彼女は家を守る姫君として守られていました」
だから貴女を耀の姫君、と呼んだのです、と少年は言った。
「…ちょっと待て。全然つながらないぞ。私は耀ではないし、幽霊とかも見えないし。そもそも話が異次元過ぎてついていけない」
信じる、信じないのレベルではなく。現代にそんなことが起こっていいのか、と言いたかった。
「それは今まで、守護されてきたからです。姫はずっと、御両親に守られてきましたが、それも今日で最後です。さっき、姫も低級霊を見たでし」
「どういう意味だ?」
少年の言葉が聞き捨てならず、思わず瑤子は身を乗り出した。問い詰めるように、声はきつい。
「遥子さんたちが―――私の、私の両親が、なんだって?」
少年は瑤子の剣幕に驚き、反射的に身を引いた。瑤子は少年が身を引いた分よりも距離を詰める。少年はすぐに、瑤子がなにを言わんとしているかに気が付いた。
「…姫は、ずっと不思議ではありませんでしたか」
「…ふしぎ?」
「不幸を呼び寄せてしまうこと。誰もが貴女に、心を奪われること」
人にはっきりと指摘されたのは、これで二回目だった。それも、見ず知らずの少年に言われ、瑤子の心はざわついた。
「それがなに?それが―――関係あるって?」
異常な関心。
瑤子をずっと、苦しめてきたもの。両親の命を奪ったもの。
「それは呪いではありません。あなたを守護するものです。あなたは、妖怪たち、あちらの世界の生き物たちが喉から手が出るほど欲しがる唯一無二の存在で、同じように人間も惹きつけます。そのままにしておけばすぐに食べられてしまう。だから、貴女のご両親は、貴女を守るために、貴女に害を及ぼす全てから遠ざけるまじないをかけたのです」
「なんだそれ…?私が、どれだけ今までっ!」
「今までどれだけの不幸に見舞われても、無傷で助かってきた。そちらの方が不思議だと思いませんか?」
「無傷なわけ…守られてたわけ、ないだろ。いいことなんてひとつもなかったのに」
「あなたが生きているそれ自体、奇跡だと言っているのです」
少年はきっぱりとそう言った。
まっすぐな瞳に射すくめられ、瑤子は絶句した。
瑤子が黙り込んだのを確認して、少年は続ける。
「…命と引き換えに、御両親は貴女を生かしたのでしょう」
瑤子の脳裏に、両親との最後の記憶がよみがえる。
七歳の誕生日を迎えてすぐのことだった。瑤子が高熱を出し、病院へと急いだ両親の車は、ハンドルの利かなくなった大型トラックに正面から激突した。
即死だったと言う。
しかし瑤子は、少年が先ほど言った言葉通りに―――
―――――無傷で生き残ったのだ。