2 キツネ、手を出す
「「「そーうっださーん♡♡」」」
けたたましい足音を立てて、数人の、明らかに体育会系の男子生徒が角を曲がってくる。
そこは――――――――――
特別教室ばかりが並ぶ廊下。よほどの暇人でない限り、昼休みにこんなところへ来ない。よって、当然のことながら誰もいない。
「あれ?」
「いない?」
「確かにこっち来たと思うんだけど…」
「宗田さーん?」
××
男子トイレの個室に、見知らぬ男子と二人。
(―――――なんだろうこの状況は…)
狭い個室に隠れるために、瑤子は壁にびたりと張り付き、その男子は瑤子の左側に右手をついて覆いかぶさるように立っている。顔はうつむいていて、見えなかった。
助けてくれたのだろうか。
万が一、奴らがトイレを覗きこんだときに気づかれないよう、個室のドアは開けたままだ。状況からして、奴らの仲間とは考えにくい。
「…行った、みたいですよ。もう大丈夫」
下を向いていた恩人が顔を上げた。間近に顔があって身構えたが、恩人の正体がわかった途端に驚きで馬鹿みたいに口を半開きにしてしまう。
「塔野!………君」
ノートを集めていた、野暮ったいクラスメイト。広海は名前を覚えていなかったようだが、瑤子はちゃんと覚えていた。何せ憧れの地味君だ。
「呼び捨てでいいですけど…」
「じゃ…じゃあ、塔野」
見えない。とても、困っているクラスメイトを積極的に助けるようなキャラには。
とはいっても、特に接点があるわけでもないし、彼のことをよく知っているわけではないのだから意外だがそう驚かない。瑤子は素直に礼を言った。
「有り難う」
「えっ…」
「助けて、くれたんだよな?だから」
「当然のこと、ですから。宗田さんが、困っていたみたいでしたし…」
助けるのが当然。
今まで言われたことのない優しい言葉に、瑤子は少し感動した。塔野はなんて優しい人なんだろうか。今まで、何となく臆病そうと先入観で思っていたけど、実は全然そんなことなかったみたいだ。追いかけてきた奴らに捕まればきっとただでは済まないのに、それでも助けるなんて、勇気がある。勝手に臆病そうとか思って本当に申し訳ない。
「!……そ、宗田さん、今何時かわかります?」
塔野は突然、びくりと瑤子から距離をとった。そういえば、昼休みももう終わるころだ。
腕時計を見ると、やはりあと二分で授業が始まる。急いで教室に帰らなくてはいけない。
「一時八分。早く帰らないとベル席になるな」
それを聞いて、塔野は困ったような顔をした。
「…まだ三時間もあるのか…」
「は?」
何が三時間。
聞こえていないと思ったのだろうか、彼が距離をとったと言っても個室の中、小さな呟きも聞こえてしまう。
「もう少しの辛抱ですから」
唐突にこちらを向いて言われても、何の事だかさっぱりわからない。
「ごめん、何のこ」
「もし、どうにもならない状況になったらこれを」
「は?え?」
塔野がブレザーのポケットから取り出し、瑤子の手に押し付けたのは、白くて細長い、片手に収まるサイズの物体だった。よく見れば、細くなった先に穴が開いている。反対側にも。
「ふ、笛?」
なんでこんなものをくれるのだろうか。しかもブレザーのポケットに入れておくなんて、最初から渡すつもりだったということか。
「きっと助けに――――あ、いや助けが、来ると思います」
「…それ、いったいどういう意味…」
「きっと来ます。そういう、おまじないですから」
おまじない。…およそ高校生男子に似つかわしくない単語を、塔野は平然と吐いてのけた。しかも全く意味が分からない。瑤子の質問にも、頓着しない。
「…もらっていいの?」
「もちろんです。これは貴女の物だから」
その言葉に、瑤子ははっとした。
(もしかして…)
これは、プレゼントだ。
また、あの厄介な”異常な関心”の結果。近くにいればいるほど悪意を持たれ、遠くであればあるほど好意を持たれる、という。
(塔野もか…)
まあいいや、慣れっこだし、と瑤子は自分に言い聞かせた。何となくさみしく感じたが、気のせいだと振り払う。
不本意だが、一度貰ってしまったものを突き返すわけにもいかない。瑤子は笛を有難くもらっておくことにした。おまじないだか何だかは若干気持ち悪いが恩人には変わりないし、我慢もする。物に罪はないのだから、とも考えた。
塔野も入れていたように、ブレザーのポケットに無造作に突っ込む。
「じゃあ…ありがとな。私はもう教室戻るよ」
「あ、はい…」
塔野もまた、自分に関心を持っていることがわかってしまった以上、これ以上話しているのは良くないことだった。仲良くなりすぎてはいけない。そろそろ授業も始まる頃なので、瑤子は早足で教室へと向かった。
男子トイレを出て教室に行くまでに、思いついて笛を取り出してみる。
すべすべと白く光る、笛。
よくよく見れば、それはとても綺麗なものだった。工芸品だろうか。詳しくないので、木製なのか、それともただのプラスチックなのか、よく分からない。印象としては、葉の散った白樺の木のようだ。
笛というからには、鳴るのだろう。どんな音色が生まれるのだろうか。興味本位で口をつける。
しゅう、と息が漏れた。何かが詰まっているような、気の抜けた音。
「な…鳴らないじゃん…」
××
男子トイレから出て、遠ざかっていく後姿を、塔野はじっと見つめていた。
もうすぐ予鈴が鳴ると言うのに、教室へ向かおうともしない。
『おいきんぎつね。いいのかぁ』
塔野は口を動かしていない。トイレの奥の薄暗がりから、濁った汚い声がした。
「なにが?姫が危険に晒されていたんだ、仕方ないよ」
先ほどまでのおどおどした雰囲気、丁寧な口調をがらりと変えて、塔野は暗がりからの声に答えた。声が聞こえたことに、驚いた様子はない。
『来夏が怒るぜぃ。まだ時間にもなってねぇってえのに、手ぇだすなんて、お前らしくもねえ』
「うっせ、黙れよ。それに御前は怒らない。すべて承知のはずだから」
『女心がわかってないねえ。女ってえのは、いっつも本当のことはいわねえんだよ。だけどそれでもわかってほしいってゆー、複雑な心理が…』
「黙れって言った」
『…』
にべにもない塔野に、暗がりのなにかはもぞもぞと動いた。幽かに小さな人の形をつくり、やれやれ、というように肩をすくめてみせる。
「…あと何時間かの辛抱だ。笛も渡したし、何事もなければいいけど…」
つぶやきをかき消すように、授業開始のベルが鳴った。
『…行かなくていいのかぁ』
「…忘れてた!」
塔野は慌ててトイレを飛び出した。
勢いよく走っていく塔野を見て、暗がりのモノは床をはいずり後を追い、するりと塔野の影に忍び込んだ。
一つ目とおなじく、挿絵消してしまいました。
なん…なんか…見直すとちっと、見苦しく感じてしまって…←