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本編1


 執務室の扉をノックしようとしていた手を、ピタリと止める。

 ウッドラフ伯爵家の女当主としてこの屋敷を切り盛りしている姉の声とは別に、微かだが聞き覚えのない男性の声が聞こえてきたからだ。


(……お客様?)


 六年前に比べ随分マシになったとは言え、いまだ社交界でのウッドラフ伯爵家への風当たりは強いままである。父の没時、既に社交界デビューを果たしていた姉は、陰で「曰くの白百合」と揶揄されるようになった。

 白金の髪に新緑の瞳を持つ姉は、なるほど、確かに白百合の花がよく似合う。

 だが、曰くとはなんだ、と憤る私よりも盛大に憤っていた姉の親友の姿を見て溜飲を下げたのは、私が十六歳になり、社交界デビューを果たした夜会でのことだった。


「……貴女が……頷いてくれるまで、何度でも……」


「……お引き取り……の意志を……お返事は……」


(っ! これって、もしかして、ベロニカ姉様への求婚!?)


 扉の向こうの会話は、途切れ途切れにしか聞こえてこないけれど、断片的な言葉を繋ぐと、どうやら姉が頷くまで、何度でも通う心づもりの殿方であるらしい。

 ぴょん! とその場で飛び上がりそうになるのを必死に堪え、こんなに熱心に姉を口説く殿方の心当たりがなく、ここ数年で必死に覚えた貴族名鑑を、脳内でパラパラめくる。

 姉は今年で二十二歳の、女伯爵である。夫は居ない。十八歳から二十二歳で結婚することがほとんどの貴族女性からすれば、あと二、三年もすれば行き遅れと言われてしまう年齢だ。

 六年前、当時姉と婚約していた伯爵家の三男とは、父の戦死をきっかけに話が破綻した。

 婿養子を取る必要がある姉は、貴族の次男や三男からすれば、是非とも射止めたい花だろう。しかし、当主としての責務を全うすることを優先させた姉は、新たに婚約者を決めることもなく、この六年、我武者羅に政務をこなしてきた。

 そんな姉が頷くまで通い続ける覚悟のある殿方など、気にならない訳もなく。

 扉が開くのを今か今かと待っていた私は、開かれた赤褐色の向こうから現れた人物を見て、目を見開くことになる。


「……失礼、ウッドラフ嬢。ぶつかってはいないか?」


「い、いえ。大丈夫でございます……——ニーレンベルグ侯爵閣下」


「そうか。……では、私はこれで失礼する、ウッドラフ伯爵。よい返事を貰えることを、期待する」


「……アルメリア、ニーレンベルグ侯爵様をエントランスまでお見送りして差し上げて」


「はい、ベロニカ姉様。ニーレンベルグ侯爵閣下、僭越ながら、私がエントランスまでお見送りさせていただきます」


「……ああ。よろしく頼む」


「はい」


 何とか一瞬で表情を取り繕い、見苦しくならない動作でカーテシーをした。

 姉ほど優雅とは言えないが、姉と、姉の親友である令嬢からは合格点を貰えたので、おそらく無礼にはならないハズだ。


(ま、まさか、まさか! 姉様への求婚者が、ニーレンベルグ侯爵閣下だったなんて……!)


 こんな内心の大混乱も、きっと表には出ていないと信じたい。


 デュランテス・ニーレンベルグ侯爵。

 父の死後、武功を上げてこの国の将軍位に就くと、隣国との戦争をあっという間に停戦まで持って行った、救国の大英雄。

 戦時中、隣国で内乱が発生した。その反乱軍を後押しする形で敵国の元国王を討ち取り、新たに王位に就いた国王との間に、和平を結んだとされているのが、ニーレンベルグ侯爵である。

 もともと伯爵位であったそうだが、この武功を持って侯爵へ陞爵された、この国の誰もが認める、まごうことなき大英雄!

 内心で大慌てになると同時に、腑に落ちる。


(そっか。だから姉様は求婚に頷かなかったんだ)


 かたや救国の大英雄で、現侯爵。かたや没した護国の英雄の忘れ形見で、現女伯爵。

 姉がこの求婚に頷けば、必然的に家格が上の侯爵家への輿入れとなる。真面目で責任感の強い姉は、当主としての教育を受けてこなかった私に女伯爵の重責を負わせることを、躊躇っているのだろう。

 エントランスまでの廊下を歩きながら、優しい姉の笑顔を思い浮かべる。

 ツキン、と感情を訴える胸の痛みを無視して、私は一つの決意をした。


「ニーレンベルグ侯爵閣下。本日はお目に掛かれて大変光栄でございました」


「ああ。……ウッドラフ嬢。君は……きちんと食事を取っているのか?」


「? ええ。毎日きちんといただいております」


「そうか……。息災ならばよい。……近いうちに、また尋ねる予定だ。その時は何か……持ってくるとしよう」


「まあ! お気遣い痛み入ります。姉は、素朴な焼き菓子を好んでおりますわ!」


「ウッドラフ伯爵が……? そうか……君は、どうなんだ?」


「私ですか? 私も、お菓子は大好きです」


「…………そうか」


「はい。それでは、ごきげんよう。ニーレンベルグ侯爵閣下」


「ああ」


 エントランスまでたどり着き、深々とカーテシーで礼を取る。

 戦場では常に冷静で、厳かで、自分にも他人にも厳しいと評判の冷厳侯爵は、何言か私と言葉を交わし、姉の好物を知ると少しだけ口元を綻ばせて、我が家を後にした。


「……義理の妹になるかもしれない私にまで気を使ってくれるなんて、優しい人」


 一人ぼっちになったエントランスで、ぽつりと言葉を零す。

 私が夢見て、諦めてしまった騎士となり、この国を救った大英雄。……私の、憧れの人。叙勲式で遠目に見た時から、すぐ目を奪われた。

 切れ長の目元は涼やかで、知的な深い蒼の瞳は、厳しさの中にも優しさを滲ませている。真っ直ぐ伸びた背筋。同じように真っ直ぐ伸びる薄紫と淡い紅が混ざったような色合いの髪は、まさに黎明と呼ぶに相応しい。

 美しく幻想的な人の隣には、なるほど、姉のような白百合がよく似合う。

 あまり背が伸びなかった私と違い、姉はスラリと長い四肢を持つ、美しい女性だ。そのうえ優しくて気立ても良い、自慢の姉である。


(これ以上、姉様の負担になっちゃダメだ)


 デビュタントの年齢であり、結婚も認められる十六歳になったら、早々にウッドラフ伯爵家にとって益のある家に嫁ぐつもりだった。

 しかし家長である姉が首を縦に振らないまま、既に二年が経過している。姉のお眼鏡に叶う未婚の令息がいないとのことだが、私だって伊達に騎士を夢見ていたわけではない。頑丈さには自信がある。

 ちょっと加虐趣味があろうと、高齢な方の後妻だろうが構わないから、と姉に言った日、私は姉の背後にオーガを見た。

 あれほどまで姉を怒らせたのは、後にも先にもあの一度だけだったが、二度と自身の結婚について迂闊なことは言うまい、と心に誓った日でもある。

 しかし、今回は姉の婚姻だ。姉の幸せがかかっている以上、私だって引くわけにはいかない。

 ぱちん、と軽く両頬を叩き、前を向く。



「ベロニカ姉様、アルメリアです。ニーレンベルグ侯爵閣下のお見送りをしてまいりました」


「ええ。お見送りありがとう、アルメリア」


 エントランスから執務室へ戻り、赤褐色の扉をノックする。

 声を掛ければすぐに姉は応えてくれて、自ら扉を開いて私を出迎えてくれた。

 白金の髪に、新緑の瞳。美しく優しい、ベロニカ姉様。大好きで大切な、私の自慢の家族。


「ベロニカ姉様。……私、覚悟は出来ています」


 応接室も兼ねている執務室の椅子に腰かけて早々、私は口火を切った。


「アルメリア? ニーレンベルグ侯爵に、なにか言われたの?」


「いいえ。でも、ごめんなさい。扉の前で、少しだけ姉様と侯爵閣下のお話を聞いてしまいました」


「っ! そう、先ほどの会話を聞いてしまったのね。……アルメリア。貴女、覚悟は出来ていて? このお話を受けるということは、今までと全く違う環境で、様々な好奇に晒されながら、それでも折れずに生きていくということです」


「はい、覚悟なら出来ています。これ以上ベロニカ姉様に迷惑はかけたくありませんし、私は父様の娘で、姉様の妹です! ちょっとやそっとの逆風でなんか折れません。だから安心して、姉様」


「迷惑だなんて、一度だって思ったことはないのよ、わたくしの可愛い妹。……分かりました。貴女がそこまでの覚悟を決めたのなら、わたくしが止める理由もありません。ニーレンベルグ侯爵には、後でお返事の手紙を書いておきます」


「はい、姉様」


 私の隣に腰掛けた姉が、優しく抱きしめてくれる。

 ぎゅっと縋り付くように姉のしなやかな身体を抱き締め返し、その肩口に顔を埋めた。


(姉様。私、きっと、きっと頑張るから。だからどうか、幸せになってね)


 目元に滲む涙は、姉と離れるのが寂しいから。胸が痛むのは、一人で女伯爵としてやっていけるか不安だから。

 だから、だから——これは決して、失恋なんかじゃ、ないの。




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