計算する女
【魔物国 王城 ルクレシア執務室】※ルクレシア視点
報告書を、三度読んだ。
一度目は、事実を確認するために。
二度目は、数字を確認するために。
三度目は、使えるものを探すために。
ルクレシアは、報告書を閉じた。
兄上は、負けた。
騎馬隊が封じられ、補給が断たれ、回廊で足止めされた。
損害は軽微だが、前進は不可能になった。撤退は、時間の問題だ。
(……予想通り)
感情はない。ただ、盤面が動いた。
兄上が独断で動いた時点で、この結果は見えていた。
力で押せば、力で返ってくる。
第三王子の戦い方は、力ではない。
だから、力で押した兄上は、最初から負けていた。
ルクレシアは、窓の外を見た。
夜の王都が、静かに広がっている。
(さて)
問題は、ここからだ。
兄上が失敗した。父上は静観している。
この空白に、誰が入るか。
(私が、入る)
だが、そのためには理由が必要だ。
王族が独断で動けば、兄上と同じになる。
父上の許可が必要だ。許可を得るためには、動く理由を作らなければならない。
ルクレシアは、再び報告書を開いた。
兄上の失敗の詳細。騎馬が封じられた状況。
補給線が焼かれた経緯。回廊で足止めされた経過。
(……面白い)
これは、単純な軍事的失敗ではない。
建国地の王子が、魔物国の軍を完全に手玉に取った記録だ。
これを父上に見せれば──
ルクレシアは、ペンを取った。
報告書の余白に、数字を書き始める。
建国地の防衛力の推定値。必要な兵力の計算。
人間国との同時対応コスト。
数字が、並んでいく。
感情は、どこにもない。
ただの計算だ。
部下が、扉をノックした。
「入れ」
「……王女殿下、ガルディアス様の軍が撤退を開始したとの報告が」
「分かった」
「いかがなさいますか」
ルクレシアは、ペンを置いた。
「魔王陛下に謁見を申し込む」
「謁見、ですか」
「今夜中に」
部下が、少し驚いた顔をする。
「今夜中、というのは……」
「兄上が撤退を始めた夜に動く。タイミングが重要だ」
部下が、頷く。
「内容は何と伝えますか」
「建国地への対応について、至急具申したいことがある、と」
部下が去った。
ルクレシアは、また窓の外を見た。
(父上は、何を考えているのか)
それだけが、唯一の不確定要素だった。
父上は静観している。
だが、静観には二種類ある。
何もしない静観と、何かを待っている静観だ。
(陛下は、何を待っているのか)
第三王子が独立した時、「盤面が動いたな」と言った。
その言葉が、ずっと引っかかっている。
父上は、知っていたのかもしれない。
あるいは、望んでいたのかもしれない。
(……だとすれば)
ルクレシアは、そこで思考を止めた。
今は、考えすぎない。使える事実だけを使う。
兄上が失敗した。建国地は、想定以上の防衛力を持っている。
このまま放置すれば、魔物国の権威が損なわれ続ける。
だから、私が動く必要がある。
それだけだ。シンプルに。
感情を入れない。
ルクレシアは、立ち上がった。
鏡を見る。
表情を確認する。落ち着いている。
完璧だ。
(さあ、父上)
ルクレシアは、扉に向かいながら、静かに思った。
(あなたが何を待っているか、謁見の間で確かめさせてもらいます)
廊下を歩く。
足音が、石畳に響く。
規則正しく。乱れない。
盤面は、また動き始めた。




