水の答え
【魔物国軍 進軍ルート付近】※セフィラ視点
水の声を、聞いていた。
遠くから流れてくる。
山から、地下から、細い脈を伝って。
この荒野にも、水はある。
見えないだけで、確かに流れている。
セフィラは、目を閉じたまま、その流れを追った。
魔物国軍の進軍ルートは、二本の川に挟まれた回廊だった。
両側を水に守られた、堅固な道。
だからこそ、選ばれた道だ。水があれば、補給もできる。兵も飲める。馬も飲める。
(……賢い選択だ)
セフィラは、素直にそう思った。
だが──
(水を選んだなら、水で詰まる)
目を開ける。
眼下に、魔物国軍の先頭が見えた。
整然とした隊列。
第一王子の軍らしく、力強い前進だ。
セフィラは、右側の川を見た。
浅い。だが、流れは速い。
左側は、深い。流れは穏やかだ。
進軍路の中央、ちょうど軍が通る場所。
地面の下に、両方の川から染み出した水が溜まっている。
(……ここだ)
セフィラは、魔力を流した。
だが、解放しない。溜める。
じっくりと、地下の水を集める。
表面には、何も変わらない。乾いた土。固い地面。
だが、その下では、水が静かに満ちていく。
部下が、後ろで囁いた。
「セフィラ様、先頭が射程に入ります」
「まだ」
セフィラは、動かない。
今動けば、先頭だけが止まる。
後続は気づかず、押してくる。
混乱はするが、立て直せる。
(全体が、回廊の中に入ってから)
待つ。引きつける。
魔物国軍が、回廊の中央に差し掛かった。
前も後ろも、川に挟まれた場所。
退くにも、進むにも、川を渡らなければならない。
(今だ)
セフィラは、魔力を解放した。
だが、爆発ではない。浸透だ。
地下に溜まった水が、一斉に表層へ滲み出す。
音はない。煙もない。
ただ、地面が、じわりと濡れ始める。
先頭の兵が、足元を見た。
「……なんだ、湿ってるぞ」
次の一歩で、沈む。
膝まで、ではない。足首まで。
だが、それで十分だった。
重い鎧を着た兵が、泥に足を取られる。
一人が止まれば、後ろが詰まる。
「どうした、前!」
「地面が、ぬかるんでいる!」
「馬が、足を取られてるぞ!」
隊列が、乱れる。進めない。
だが、退けない。
後続が、まだ押してくる。
回廊の中で、軍が団子になっていく。
(……第一段階、完了)
セフィラは、次に左側の川に意識を向けた。
深い川。穏やかな流れ。
補給の水源として、軍が頼っている川だ。
セフィラは、川底に魔力を走らせた。
泥を、巻き上げる。ゆっくりと、底の泥を表層に混ぜる。
川の色が、少しずつ濁っていく。飲めないほどではない。
だが、飲みたくない色だ。
(これで、補給の水への不安が生まれる)
水が濁れば、兵は迷う。
飲んでいいのか。馬に飲ませていいのか。
判断を迷わせるだけでいい。それだけで、行動が遅くなる。
セフィラは、ここで手を止めた。
川を氾濫させれば、回廊ごと軍を飲み込める。
水源を完全に断てば、三日で撤退する。
やろうと思えば、できる。
(……だが)
脳裏に、過去の光景が蘇る。
水源を断った戦場。一日で終わった戦。
そして、巻き込まれた民の顔。
(やりすぎた)
あのとき、勝ったのに、褒められなかった。
褒められないどころか、遠ざけられた。
苛烈すぎる、と。
セフィラは、ずっとその意味が分からなかった。
勝てばいい。早く終わればいい。なぜ、やりすぎになるのか。
だが今は、分かる。
(ここは、戦場じゃない。国だ)
この先に、建国地がある。人が生きている場所がある。
水を暴れさせれば、その水は必ず下流へ流れる。
下流には、民がいる。
(管理する。終わらせるんじゃない)
それが、セフィラの選んだ戦い方だ。
足を止める。水を濁らせる。
それだけでいい。
部下が、緊張した声で言った。
「セフィラ様、敵の指揮官が川を渡ろうとしています」
セフィラは、右側の浅い川に意識を向けた。渡れる深さだ。
だが、流れが速い。
セフィラは、川底の石を、少しだけ動かした。
足場が、不安定になる。膝まで浸かった兵が、よろめく。
「流れが速い!渡れないぞ!」
「馬が嫌がっている!」
渡れない。進めない。退けない。
回廊の中で、魔物国軍は完全に身動きが取れなくなった。
(……十分だ)
セフィラは、魔力を緩めた。
水は、静かに元の流れに戻っていく。
泥も、少しずつ沈んでいく。壊していない。民への被害もない。
ただ、軍が、止まっている。
「セフィラ様」
部下が、呆然と言う。
「……誰も、斬っていませんね」
「斬る必要がない」
セフィラは、静かに答えた。
「水は、人を殺すためにあるんじゃない」
部下は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……はい」
遠くで、アルトの声が届いた。
「セフィラ、どうだ」
「魔物国軍、回廊で停止しています。突破は、少なくとも半日は無理です」
「損害は?」
「ゼロです」
短い沈黙。
「よくやった」
セフィラは、川を見下ろした。
水は、また透明に戻りつつある。
濁りは、消えていく。
(水は、形を持たない。だから、何にでもなれる)
戦場では、刃になった。
だが、ここでは違う。
壁になった。
それが、今日のセフィラの答えだった。
管理する将軍は、今日も戦争を終わらせなかった。
ただ、止めた。それで、十分だった。




