疑心は、足を縛る
【魔物国 野営地】
焚き火を囲む声は、低かった。
「……聞いたか」
「ああ」
兵士の一人が、周囲を確認してから続ける。
「人間国が、わざと手を引いてるって話だ」
「手を引く?」
「俺たちが建国地に向かった隙に、本国を叩く気らしい」
沈黙。
別の兵士が、水を一口飲む。
「……それ、どこから出た話だ」
「商人が言ってた。国境の向こうで、兵が動いてるって」
「商人の話なんか信用できるか」
「でも、確かめようがないだろ」
誰も、否定できない。
それが、噂の強さだった。
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【同日 第一王子 ガルディアスの陣】
副官が、地図を広げた。
「……閣下、一つ報告が」
「何だ」
「人間国の動きに、不審な点があります」
ガルディアスは、眉をひそめる。
「不審?」
「前線の圧力が、ここ二日で明らかに落ちています」
地図を指で叩く。
「わざと引いているように見えます」
ガルディアスは、腕を組んだ。
敵が引く。それは、追い込んでいる証拠だ。
だが。
(……なぜ、今のタイミングで)
「建国地への進軍と、時期が重なっている」
副官が、慎重に続ける。
「もし、俺たちが建国地に集中した隙を……」
「狙う、か」
ガルディアスは、地図を見た。
本国への街道。守りの薄い後方。もし人間国が本気で攻めてきたら。
「……速度を落とせ」
それは、命令というより、独り言に近かった。
「は?」
「速度を落とすと言った」
副官が、息を呑む。
「ですが、閣下が独断で出兵されたのは、既成事実を作るためでは――」
「俺が決める」
ガルディアスは、立ち上がった。
怒りではない。
珍しく、考えている顔だった。
(……罠か)
建国地に引き寄せておいて、本国を叩く。
それは、戦略として筋が通っている。
第三王子なら、やりかねない。
「斥候を出せ。人間国の動きを確認してからだ」
命令が変わった。前進は、止まった。
【人間国 国境付近】
伝令が、息を切らして駆け込んできた。
「報告です!魔物国の第三王子が、反転攻勢の準備をしているとの情報が!」
老将は、地図から目を離さなかった。
「……出所は」
「複数の商人から、同時に」
「同時に、か」
老将は、顎を撫でた。
複数から同時に出る情報は、信憑性が高い。
だが、同時すぎる情報は、仕込まれている可能性がある。
(……どちらだ)
「魔物国の王子が、建国地から出てくるとすれば」
老将は、地図を指でなぞる。
「我々の側面を突ける位置に、いる」
副官が、緊張した声で言う。
「進軍を続けますか」
老将は、しばらく黙った。
戦争を何十年も生き抜いてきた目が、地図を見つめる。
(……罠かもしれない。だが、罠でないかもしれない)
どちらにせよ、確認なしに動くのは危険だ。
「隊列を整える。斥候を三手に分けて出せ」
「進軍は?」
「……保留だ」
副官が、安堵したように頷く。
老将は、一人だけ気づいていた。
自分が今、誰かの手のひらの上にいるかもしれないということを。
(……第三王子、か)
建国地に座ったまま、両国を動かしている。
老将は、小さく息を吐いた。
(……面白い手を使う)
それだけが、正直な感想だった。
【建国地 翌朝】
レオンが、静かに言った。
「両国、足が止まりました」
アルトは、地図を見たまま頷く。
「どのくらい?」
「魔物国は速度が三分の一以下。人間国は斥候を出して様子見です」
「十分だ」
アルトは、立ち上がった。
「グラン」
「オデ、準備できてる」
「レオン」
「補給線の位置、特定しました」
「セフィラ」
「騎馬の封じ方、三パターン用意しています」
アルトは、全員を見渡した。
怯えはない。だが、緊張はある。それでいい。
「噂で稼げる時間は、あと二日だ。その間に、終わらせる」
誰も、余計なことを言わない。
全員が、同じ方向を向いている。
外では、両国の軍が、見えない霧の中で立ち止まっている。
その霧を作ったのは、剣ではない。言葉だった。




