正義が前に出るとき
決定は、静かに下された。
王城の奥、神殿と王家が同席する評議の場で、
誰も声を荒げることはなかった。
魔物国の動き。国境付近の緊張。小競り合いの増加。
それらは、すでに「偶発」ではなくなっていた。
だから結論は一つだった。
――戦争を、段階的に本格化する。
それは宣戦布告ではない。
あくまで「防衛の強化」であり、「脅威の除去」だ。
言葉は慎重に選ばれる。
人々が恐れないように。
疑問を抱かないように。
そして、最も重要な名前が挙げられる。
勇者エリオス。
彼が前線に立つ。それだけで、民は納得する。
光が動くのなら、それは正しい。
誰もが、そう思える。
エリオスは、命を受けたとき、深く頷いた。
迷いはない。
疑問もない。
ただ、胸の奥に、かすかな違和感が残っている。
だが、それを言葉にする前に、彼は剣を取る。
(今は、前に進むときだ。
魔族を討てば、すべては終わる)
そう信じてきた。
信じ続けてきた。
信じなければ、自分が何者か分からなくなる。
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戦場は、人間国と魔物国の境界に広がっていた。
草原は踏み荒らされ、土は赤黒く染まり、空には火と風が交錯する。
ここには、祈りも帳消しもない。
あるのは、殺すか、殺されるか。
勇者エリオスは、最前線に立った。
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戦場は、すでに崩れていた。
勇者エリオスが前に出たことで、人間国の前線は一気に押し上がる。
光を纏った剣が振るわれるたび、魔物国の兵は後退を余儀なくされた。
力が違う。技量も、士気も。
勇者がいる限り、前線は折れない。
それが、人間国の戦い方だった。
エリオスは止まらない。
防衛線を突破し、さらに奥へ。次の陣へ。
魔物国の本陣が、視界に入る。
簡素だが、整った陣。
過剰な防御も、混乱もない。
不自然なほどに、落ち着いている。
(指揮を潰せば、終わる)
勇者として、最も正しく、最も分かりやすい判断。
その瞬間、足元の感触が変わった。
地面が、沈むのではない。
ズレる。
踏み込みの力が、意図しない方向へ流れる。
致命的ではない。だが、勇者の速度を殺すには十分だった。
横合いから剣が叩きつけられる。
火花。
金属音。
エリオスは反射的に受け止める。
間合いは、近い。吐息がかかる距離。
相手は、魔族だった。
荒々しさはない。殺気はあるが、感情がない。
まるで、戦場全体を預かっている存在のような圧。
剣と剣が弾かれ、距離が空く。
互いに、踏み込まない。この間合いが、限界だと理解している。
戦場の喧騒が、一瞬だけ遠のいた。
「斬れば、終わると思っている」
魔族が、静かに言う。
「それが、正義だからだ」
エリオスは、迷いなく言い切った。
魔族は、わずかに目を細めた。
それは、嘲りでも否定でもない。
確かめる目だ。
「違う。大事なのは、斬った後にどうするかだ」
その言葉が、剣よりも重く胸に落ちた、その瞬間。
地面が、二人のあいだで盛り上がった。
轟音は小さい。
だが、動きは速い。
土と岩がせり上がり、剣一本分の距離だった空間を、完全に断ち切る。
それは、防壁ではない。
城でも、陣でもない。
境界線だ。
エリオスは、一歩踏み出そうとして止まる。
越えられない。越えようと思えば越えられる。
だが、それは――
(……斬る、という選択だ)
理解してしまった。
壁の向こう側で、魔族はすでに剣を下ろしている。
こちらを見ていない。
戦場全体へと、意識を戻している。
「名は、アルト・ノクティス」
振り返らずに告げられる。
「また、会おう」
その言葉は、挑発でも予告でもない。
次は、斬るかどうかを選ぶ場所で会うという、当然の前提のようだった。
壁は、ゆっくりと固定される。
時間が経てば、回り込める。
壊そうと思えば、壊せる。
だが、今この瞬間は、進めない。
勇者エリオスは、剣を下ろさなかった。
だが、踏み出すこともできなかった。
(……斬った後に、どうするか)
その問いが、
壁よりも高く、
彼の前に立っていた。




