血の匂いを知らぬ王に、席はない
第一王子が来る――
その報せは、朝の執務室に重く落ちた。
視察。協議。
そうした名目は添えられていたが、アルト・ノクティスは、報告書を閉じた瞬間に理解していた。
これは、踏み込みだ。
派閥の圧を、言葉や書類でなく、身体ごと叩きつけてくる類のものだ。
扉は、ノックされなかった。
重い音を立てて開き、最初に入ってきたのは、磨き抜かれた甲冑の肩口だった。
第一王子。
背は高く、体躯は分厚い。
武人として鍛え抜かれた身体は、そこに立っているだけで空気を圧迫する。
護衛は、扉の外に残された。
それ自体が余裕の証だった。
「久しぶりだな、アルト」
声は低く、ぶっきらぼうだ。
挨拶というより、現場で部下に声をかける調子。
「……兄上」
アルトは、立ち上がらなかった。
わざとではない。今は、立つ理由が見つからなかった。
それを見て、第一王子は鼻で笑った。
「いい身分だ。紙の山に埋もれて、王様気分か?」
言葉は荒いが、そこに侮蔑はない。
あるのは、価値観の違いだけだ。
「聞いてるぞ」
第一王子は、地図も見ずに言った。
「お前のところ、随分と忙しいらしいな」
「揉めてはいない」
アルトは、淡々と答える。
「同じだ。揉めてねぇってのは、まだ血が出てねぇだけだ」
その一言で、部屋の温度が変わった。
血。
アルトが、意識的に遠ざけてきた言葉。
「で?」
第一王子は一歩、距離を詰める。
「戦場には、行ったか?」
問いは短い。逃げ道を用意しない問いだ。
「……まだだ」
「だろうな」
肩をすくめる。
「だから来た」
机を指で叩く。鈍い音が、胸に響く。
「戦場についてこい」
アルトの思考が、一瞬止まった。
「……何を言っている」
「そのままだ」
第一王子は、当然のように続ける。
「俺が出る。お前も出ろ」
理屈はない。計画も、説明もない。
だが、その言葉は重かった。
「現場は、今も動いてる。地図の上で悩んでる間に、人は死ぬ」
第一王子は、アルトを真正面から見据える。
「王になりたいなら、血の匂いを知れ」
その言葉は、命令ではない。
宣告だった。
アルトは、息を整えた。
胸の奥が、じわりと冷える。
戦場は、彼の世界ではない。
そこでは、理屈は遅れ、制度は無力で、正しさは間に合わない。
「それが、兄上の王道か」
「他にあるか?」
第一王子は即座に返す。
「剣を振らずに国を守れるなら、やってみろ」
さらに一歩、近づく。
距離が、圧力になる。
「俺はな。逃げない王しか認めねぇ。
前線に立たねぇ王は、後ろから石を投げてるだけだ。
そんな席は、最初から空いてねぇ」
アルトは、兄の目を見る。
そこにあったのは、暴力でも、虚勢でもない。
戦ってきた者だけが持つ、単純で、揺るがない覚悟。
この男は、本気で国を背負うつもりだ。
だからこそ、アルトを引きずり出す。
「……分かった」
アルトは、短く答えた。
第一王子の口元が、僅かに歪む。
「なら話が早ぇ。明朝だ。辺境で、小競り合いが起きてる。
お前が王を名乗りたいなら、そこに立て」
それだけ言って、第一王子は踵を返した。
扉が閉まる。
残された執務室は、異様に静かだった。
書類の山も、地図も、何も答えてくれない。
アルトは、椅子に深く座り直す。
戦場。
そこは、盤面ではない。
命が、直接ぶつかる場所だ。
(……魔王)
胸の奥で、嫌な予感が形を持つ。
これは、兄の思いつきではない。
投げられた石が、ここに転がってきただけだ。
試金石は、次の段階に入った。
制度でも、派閥でもない。
血の上で、王を量る段階へ。




