正しさが、喉を塞ぐ
異変は、音を立てなかった。
怒号もなく、剣も抜かれない。血の匂いすらない。
だが、朝から空気が重い。
第三王子アルト・ノクティスの執務室では、机の上に並ぶ報告書が、
昨日より明らかに増えていた。
紙の厚み。封蝋の数。署名欄の空白。
どれも、嫌な予感を裏切らない形をしている。
「……一日遅れ?」
レオンが、乾いた声で読み上げる。
「物資の搬入が、規定確認のため保留されています」
「規定?」
「はい」
別の紙をめくる。
「三年前に改訂された条文です。形式上は、完全に正しい」
アルトは、何も言わなかった。
正しいことは、否定できない。
次。
「人員引き継ぎ、差し戻し」
「理由は?」
「引き継ぎ書の文言が、中央様式と異なるとのことです」
グランが、低く唸る。
「……中身は?」
「問題ありません」
「じゃあ、なんで戻す」
レオンは、目を伏せた。
「“前例と違う”からです」
その一言が、部屋の温度を一段下げた。
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昼前。
第一王子派の使者が来る。
甲冑は磨かれ、姿勢は堂々としている。
「第三王子殿下」
深々と頭を下げながら、声には力がある。
「辺境の治安ですが、最近、不穏な動きが見られます」
「報告は受けている」
「ですので、我が一派から、精鋭を派遣しましょう」
言葉は柔らかい。だが、断れない形をしている。
「指揮権は?」
「共同で」
即答。
「殿下の負担も減るはずです」
受ければ、現場は安定する。
拒めば、治安悪化の責任が第三王子に集中する。
「……検討する」
それしか、言えなかった。
使者が去ったあと、部屋に重たい沈黙が落ちる。
「……貸しを作られる」
セフィラが、低く言う。
「貸しで済めば、まだいい」
アルトの声は、静かだった。
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午後。
第二王女派の官僚が現れる。
声は穏やか。所作は丁寧。
「殿下、最近の裁定ですが」
書類を差し出す。
「暫定管理者制度、前例に照らすと整理が必要かと」
「どこが問題だ」
「問題はありません。だからこそです」
言葉が、胸に刺さる。
「制度として曖昧なままにすると、
後々、殿下ご自身が苦しむことになります」
正論。
誰も否定できない。
「整理とは?」
「権限の明確化です。期限の短縮、裁量の制限」
つまり――
風を、殺す。
レオンが、小さく息を吐いた。
「……巧妙ですね」
「巧妙だから、逃げ場がない」
アルトは、目を閉じる。
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夕刻。
現場から、細かな報告が積み上がる。
「第一王子派の武官が、配置に口を出しています」
「第二王女派の監察が、 記録の再提出を要求、裁定が、中央で止まっています」
どれも、正しい。
だから、反発できない。
グランが、拳を握りしめる。
「……殴れねぇ」
「殴ったら、終わりだ」
アルトは、低く言った。
殴れば、反逆。拒めば、無能。
受け入れれば、侵食される。
選択肢が、すべて削られていく。
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夜。
執務室の灯りは、まだ消えない。
誰も、帰ろうとしない。
セフィラが、地図を見つめたまま呟く。
「……これは、戦場ですね」
「違う」
アルトは、かすかに首を振る。
「戦場なら、敵が見える。
これは…正しさで、首を締められる場所だ」
誰も、返事ができなかった。
アルトは、窓の外を見る。
夜空は、変わらない。
だが、確実に息苦しい。
(……魔王)
名を出さずとも、分かる。
これは、最初の石だ。
しかも、一番優しい石。
耐えられるか。壊れずに、立っていられるか。
魔王は、まだ何もしていない。
それが、一番の絶望だった。




