風を縛らないという選択
裁定の翌日、
第三王子の執務室には、いつもの顔ぶれが揃っていた。
地図は広げられていない。帳簿も閉じられたままだ。
代わりに、机の中央に置かれているのは、一枚の裁定記録。
そこには、こう記されている。
――暫定管理者:シルヴァ。
最初に口を開いたのは、レオンだった。
「殿下。あの人物を、このまま自由にしておくおつもりですか」
問いは穏やかだが、中身は鋭い。
「囲い込まない理由が、必要だと思います」
それは反対ではない。
確認だ。
グランも、腕を組んだまま頷く。
「オデ、よく分からねぇが、
風みてぇな奴は、掴まえねぇとどっか行っちまうんじゃねぇか」
セフィラは、黙ったまま、記録を見ていた。
水は、流れを管理できる。
だからこそ、風を放つ判断がどれほど危ういかも分かる。
アルトは、椅子に深く腰掛けたまま、静かに言った。
「囲えば、来なくなる。シルヴァは、評価を求めていない
所属も、居場所も、名誉もだ。だが、責任は、引き受けた」
アルトは、裁定記録に視線を落とす。
それが、何より重要だった。
「捕まえれば、判断が鈍る。
縛れば、線を引けなくなる」
レオンは、小さく息を吐いた。
「……理屈としては、理解できます。
ですが、国を作るとなれば話は別です」
「別にならない」
アルトは、あっさりと言った。
「国を作るとき、風が必要なら、あれは必ず来る」
グランが、目を瞬かせる。
「なんで、そう言い切れる」
アルトは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「国を作る、というのは一番、止めなきゃいけない瞬間が来る。
あいつは、そういう場所に必ず現れる」
それは、楽観だった。
だが、根拠のない楽観ではない。
セフィラが、静かに言う。
「信じているのですね」
「違う」
アルトは首を振る。
「理解している」
そして、もう一つ。
「名は、シルヴァのままでいい」
全員の視線が、アルトに集まる。
「偽名だと、分かっている。
だが、あれは“責任を負う名”だ」
アルトは、胸に手を当てる。
「私が魔力で、覚えている。忘れない」
それは、契約ではない。誓約でもない。
王が、風を認識した証だった。
「名を縛らず、記憶だけを持つ。それでいい」
レオンは、しばらく黙ってから、静かに頷いた。
「……殿下らしい」
そのとき、部屋の空気がわずかに変わった。
重くなるのではない。冷える。
アルトは、視線を上げる。
何かが、来る。
理由はない。予兆だけがある。
風でも、水でも、火でもない。
「……そろそろだな」
誰にともなく、呟く。
魔王は、流れを見ている。
そして――
止まらない流れには、必ず石を投げる。
アルト・ノクティスは、確信していた。
次に来るのは、試練ではない。
試金石だ。
王として、どこまで耐えられるかを測るための。
風を縛らず、
水を流し、
地を固め、
火を使った。
その上でなお、立っていられるか。
その問いが、すでに投げられようとしていた。




