名前を持たない不安
最近、夜が短い。
そう感じるようになったのは、ルシエルだけだった。
人の出入りが増えた。
第三王子の周囲を、静かに、だが確実に。
誰も騒がない。誰も誓わない。
それでも――
流れは、加速している。
グランは、地図を書き換えている。
拠点が増え、道が整い、地形が“使われ始めた”。
レオンは、帳簿を閉じる時間が目に見えて短くなった。
「……このままいけば、三日で回りますね」
それが、良い意味なのかどうか。
ルシエルには、判断がつかない。
セフィラは、兵の配置を一度見ただけで、修正を終える。
前線が安定し、後方が軽くなる。
戦争が、遠のいているはずだった。
(……なのに)
ルシエルの胸は、重かった。
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夜。
資料室の片隅。
アルトは地図を見ている。
いつもと同じ姿。
「……順調ですね」
ルシエルは、そう言った。
声は、自分でも驚くほど乾いていた。
「そうか?」
アルトは、視線を地図から離さない。
「人が増えました。
動きも、速くなっています」
「なら、いいことだろう」
即答。
ルシエルは、言葉に詰まった。
間違っていない。正しい。
正しすぎる。
「……止まる場所が、ありません」
ぽつりと、零れた。
アルトの指が、止まる。
「流れは、止めない方がいい」
そう言うと思っていた。
だが──
「……どこが、引っかかる」
アルトは、珍しく聞き返した。
ルシエルは、目を伏せる。
言葉が、見つからない。
「……分かりません。
でも、このままだと…」
胸に浮かぶ感覚。
光が、広がりすぎる感覚。
境界が、溶けていく感覚。
「……誰かが、悪者になる気がします」
空気が、わずかに張り詰めた。
「誰が?」
「……分かりません。だから、怖いんです」
アルトは、地図を見つめたまま黙り込む。
否定しない。
だが、肯定もしない。
その沈黙が、ルシエルには答えのように思えた。
(……止める人が、いない)
地は、形を作る。
火は、燃え方を変える。
水は、流れを制御する。
(でも)
枠がない。
ルシエルは、自分が光であることを初めて恨んだ。
照らせば、見えてしまう。
だが、線は引けない。
「……アルト様」
呼び方が、少しだけ変わる。
「私…これを、“国”と呼ぶには…」
言葉が、続かなかった。
アルトは、静かに息を吐く。
「……まだだな」
その一言で、胸の奥が冷えた。
同時に、少しだけ楽になる。
「足りない」
アルトは、はっきり言った。
「分かっている」
それだけだった。
解決策は、まだない。
だが。
ルシエルは、確信した。
このままでは、どこかで必ず歪む。
夜が、また短くなる。
流れは、止まらない。
そして、風のない場所で、
水は溜まり始める。
誰も、それをまだ言葉にできないまま。




