コップの振動
仕事から帰宅したのは、夜の九時を過ぎていた。
遅い時間のスーパーで買った総菜を皿に盛り、食卓に並べる。独り暮らしも長いせいか、食事はだんだんと儀式のようになり、温め直す音とテレビのニュースだけが部屋を埋めていた。
その夜も、特に変わったことはなかった。
洗い物を終えて椅子に腰を下ろした時だ。
テーブルの上に置いたコップが――カタリ、と震えた。
「……ん?」
地震かと疑ったが、天井の照明も壁のカレンダーも、空気のように静かだ。コップだけが震え、縁がかすかに鳴いている。
風でも通ったのかと思い窓を確かめたが、きっちりと閉じられていた。
数秒後、震えは止み、部屋は元の静寂を取り戻した。
気のせいだ、と自分に言い聞かせ、眠りについた。
翌晩。
夕食を終え、ソファに横になっていると――バサリと音がした。
壁に掛けていたカレンダーが、床に落ちている。
留め具が外れたのかと思ったが、釘はしっかり壁に刺さり、金具もそのままだ。紙だけが裂けたように外れて落ちていた。
「……」
首筋に冷たい汗がにじむ。
先日のコップのことが思い出される。
だがその夜も、やがて時間は過ぎ、何事もなかったかのように朝を迎えた。
三度目の夜。
部屋の隅に置いた椅子が――**ギギ……**と床を擦り、ゆっくり引かれた。
誰も座っていない。風もない。
だが確かに、目の前で椅子が動いた。
その音を聞いた瞬間、喉が乾き、息がうまく吸えなくなった。
「ポルターガイスト」――その言葉が頭に浮かんだ。
だが声に出すと、本当に認めてしまうようで、唇は固く閉じたままだった。
その後数日、異常は起きなかった。
だが、不安は逆に膨らんでいった。
会社で同僚と話していても、帰り道で信号待ちしていても、頭のどこかで「また動くのではないか」と考えてしまう。
夜は特に怖い。
部屋の隅の暗がりが気になり、視線を向けるたび、何かが立っているように見えた。
それでも生活は続く。食事をし、シャワーを浴び、ベッドに入る。
そして――あの夜を迎えた。
ふと目が覚めた。
時刻は午前二時過ぎ。部屋は静まり返り、窓の外から遠い車の音がかすかに聞こえる。
その時だった。
部屋の隅に――立っていた。
暗闇の中に浮かぶ人影。
背丈は自分と変わらない。
だが、異様に硬直していた。
顔だけが白く浮かび、口が異様に裂けるほど開いている。
――笑っていた。
だがその笑いには音がない。
肩が震え、胸が揺れ、顎がカクカクと不自然に動く。
まるで壊れた人形が「笑う」という仕草を繰り返しているだけのようだった。
「……っ」
息が止まる。
体が鉛のように重く、動かない。
恐怖が皮膚を這い、血の気が引いていく。
視線を逸らせない。
脳の奥が「見てはいけない」と警告するのに、目は離れない。
その瞬間――腕を掴まれた。
氷のように冷たいのに、焼けるような熱さが同時に押し寄せる。
針で突き刺すような痛みが皮膚を走り、喉の奥で悲鳴が詰まった。
必死に振り払おうとしたが、力は入らない。
視界が揺れ――気づけば、影は消えていた。
部屋は静かだった。
ただ、心臓の鼓動だけが耳を打っていた。
翌日から、何も起こらなくなった。
食卓のコップは静かで、カレンダーも落ちない。
椅子は動かず、夜の部屋も沈黙している。
仕事も、買い物も、友人との会話も――以前と同じように続いた。
あの出来事は夢だったのではないか、と錯覚するほどに。
だが、一つだけ違うものが残った。
腕の痣。
掴まれた場所に、赤黒い跡が浮かんでいた。
最初は小さな火傷のように見えたが、日を追うごとに濃さを増し、形を変えていった。
鏡で見ると、それは脈打っているように見えた。
皮膚の下で何かが生きて動いているかのように。
見れば見るほど、胸の奥がざわめく。
呼吸が浅くなり、心臓が早鐘を打つ。
その跡が、あの「笑い」と同じリズムで動いている気がしてならない。
――今も、笑っているのではないか。
自分の皮膚の下で。
見えない口が開き、無機質に笑い続けているのではないか。
腕を押さえる。
熱が伝わってくる。
冷や汗が背中を濡らす。
消えない。
どうしようもなく、
邪悪霊・悪戯霊・低級霊側からすれば……
自分の恨みや怒り、悲しみの念を人間に知らせる(知ってもらいたい)、その思いを晴らすために、霊的に弱い人に憑りつく。
または、低級霊の霊的痛みや苦痛をやわらげるために人間に憑りつく。
憑りつくと痛みが軽減されるらしいが、人間側は苦しむ。
らしいです。
霊に襲われる話はあるけれど身体に死亡以外の実害がある話は少ないなと思い、書かせていただきました。
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