第96話 右頬と左頬
「はあ、マーガレット。肝が冷えたよ」
「ごめんなさいお父様。だって国王が王命を出したせいで婚約したのに、『婚約は嫌か?』って聞くんだもの。つい一矢報いてやりたくなっちゃった……やっぱりいけなかった?」
国王との謁見を終えたマーガレットとセルゲイ、そしてイグナシオの三人は、謁見の間から少し離れた外廊下で軽い反省会をしていた。
「うーん。目上の人に、それも国王相手にそんなことするのは良くないと叱るところなのだろうが。正直なところ……スッとしたよ」
小声でそう告げたセルゲイはマーガレットを抱き締めて、右頬に感謝のキスをする。
「ふふ。お父様ならそう言ってくれると思った」
「そうかい? イグナシオもあの修羅場をよく乗り切ったな。偉かったぞ」
「いえ、私は……」
マーガレットと話そうと駆け寄ってきていたゼファーは、談笑する三人の様子を見て足を止める。
ゼファーより少し遅れたルナリアは「待って、お兄様」とゼファーに声を掛けたが、ゼファーは時が止まったように静止して動かなかった。
兄の様子を心配したルナリアが服の裾を引っぱると、時計の針が動き出したように普段と変わりない様子でゼファーはルナリアに笑いかけ、二人はそのままマーガレットたちに合流した。
「学園に向かう前に、皆さんにご挨拶をと思いまして」
ローゼル学園に入学したばかりのゼファーは新調された制服に身を包み、穏やかな笑顔を浮かべている。
ゼファーの周囲には側近のミュシャや従者、護衛騎士たちが勢ぞろいして、相変わらずの大所帯である。後ろに控えているミュシャは笑顔を見繕ってはいるが、先程から何度も左手首の時計を確認している。
「早く学園に行ったほうがいいのではないかしら」という視線を投げかけているマーガレットの肩をポンと叩きながら、セルゲイは和やかに笑顔を振りまいた。
「そうなのですね。忙しい中、申し訳ありません、ゼファー殿下」
「いえ、こちらこそ。フランツィスカ卿には父の大人げない口撃を涼しい顔で避けていただいて、いつも感謝しています」
「……上手く回避できていれば良いのですがね。たまに被弾していますよ」
「そんな風には見えませんでしたが、流石は国の中枢を担う軍事貴族のトップ、セルゲイ・フランツィスカ卿です。あ、そろそろ時間のようです。それでは私は失礼させていただきます……そうだ、マーガレット」
ゼファーは不意にマーガレットを抱き寄せると、躊躇うことなくその左頬にそっとくちづけを施した。
突然のことに驚いたマーガレットは反射的に身体を仰け反らせるが、肩をがっしりと掴まれたマーガレットの身体はピクリとも動かない。
不敵な笑みを浮かべたゼファーは紫色の瞳を蕩かせて「行ってくるよ」と甘い声で囁いた。
「い、行ってらっしゃいませ……」
顔を引くつかせながらゼファーを見送ったマーガレットの背後では、セルゲイとイグナシオが「うお、よくやるよ」とか「あの年の頃の僕にはあんなことできなかったろうなあ」とか言いたい放題言っている。
その二人の横で、顔を紅潮させたルナリアがイグナシオに探るような視線を投げかけていた。その熱を帯びた瞳に気が付いたマーガレットはハッと息を飲む。
もしかして……ルナリアはイグナシオお兄様にキスしてほしいのかしら!?
ルナリアがお兄様のこと好きって謁見の間で宣言したのは驚いたけど、思えばお兄様のことを格好良いって言ってた気がするし、意外と良い組み合わせなのかもしれない。
二人には幸せになってほしい……そうだ!
星が瞬くように何か閃いたマーガレットは、キラリと翡翠の瞳を輝かせる。
「そうだ! ねえルナリア。これからイグナシオお兄様と一緒に琥珀宮に遊びに行ってもいいかしら? 最近アヴィにも会えてないし」
「それはもちろんぜひ……あ」
「どうしたの?」
マーガレットの問いかけにルナリアは口をへの字に曲げて沈黙する。
そして何度も何かを言いかけては目を伏せ……それを何度繰り返しただろうか、ついに覚悟を決めたらしいルナリアは淡い紫の瞳を見開いて、しっかりとした口調で語り出した。
「マーお姉様にはお伝えしていなかったのですが、最近アヴィ兄様はその、塞ぎ込んでしまって……お部屋に閉じこもっているのです。わたくしもお母様も、もう五日間アヴィ兄様の顔を見ていません」
「え! アヴィは大丈夫なの!?」
マーガレットの問いかけに、ルナリアは目を細めてただ淋しそうに佇んでいる。ルナリアの沈黙を目にしたマーガレットの頭に、ある可能性が浮かび上がる。
アヴィが塞ぎ込んでいる理由ってまさかと思うけど、この婚約のせい?
兄のゼファーに裏切られたと思って落ち込んでるんじゃ……。
アヴィがそんなことになってるなんて、私は全然知らなかった。
どうしてそんな大事なこと誰も教えてくれないの……あ、私の顔を見たらアヴィが婚約の話を思い出して悲しむから?
「もしかして私……会いに行かないほうがいい?」
返答に困ったルナリアと、返事を待っているマーガレットは互いに沈黙している。
ルナリアの反応からして、やっぱりアヴィが塞ぎ込んだ原因はこの『婚約』なのだろう。
だとしたらアヴィは私の顔なんて見たくない、わよね。
責任を感じてしまったマーガレットも地面に目を落とし、言葉を失くしてしまった。
ぎこちなく沈黙したマーガレットとルナリアの間にドンと割り込んだのは、さも当然という顔をしたイグナシオだった。
「馬鹿だなマーガレット。アヴェル殿下はお前に会いたいと思ってるだろ!」