第93話 握った指先
ローゼンブルク城、城門前。
城の周囲は深く大きな川に囲まれた堀となっていて、高い石壁に覆われている。
そのため、人が出入りできる城への入り口はこの城門の石橋のみである。
城門前の石橋には一台の馬車が入場の許可を待ち、停車していた。
漆塗りの馬車はワインレッドに輝き、百合よりも豪奢で華やかなカサブランカの花を模した家紋はフランツィスカ家の高貴さを表している。
城門の鉄格子が開くと馬車は中へと入城し、大扉の横で停車した。
御者の手も借りずに扉を開けて出てきたのは、長い赤毛をなびかせたマーガレットだ。
マーガレットの到着を大扉の前で首を長くして待っていたゼファーは、マーガレットを見つけると一目散に駆け寄って手を差し伸べる。
「いらっしゃい、マーガレット。手を」
「ありがとうございます、ゼファー殿下」
礼を言ったマーガレットも自然にゼファーの手を取って、婚約してま六日とは思えないほど息の合った様子を見せている。
次に馬車を下りたイグナシオと、ちょこちょこと駆け寄ったルナリアは挨拶を交わす。しかし二人は目を合わせることもなく、どこか距離がある。こちらは婚約して三日の二人だ。
最後に馬車を下りたセルゲイは、この数日で我が子が二人とも婚約してしまったことに淋しさを感じつつ、これから始まる苦行を思い、人知れず重い息を吐いた。
フランツィスカ家が親子三人でローゼンブルク城を訪れた理由。
それは急に決定した二組の婚約の、正式な婚約式と国王への謁見だ。
本来ならば、イグナシオとマーガレットの母であるレイティスも登城するものなのだが、マーガレットとアヴェルの婚約話を王命で潰されたと怒り心頭のレイティスは、登城(というか国王に会うこと)を拒否。
セルゲイが聞いた話だと、同じくマルガレタも国王に怒っていてあの件以来、国王と口も利かないらしい。それでも娘のルナリアの門出を祝うため、謁見には立ち合うという話もある。
ゼファーの母のトゥーラ第一側妃は約十年前に亡くなっているため、二組の婚約式の割に親はセルゲイと国王、マルガレタ第二側妃の三人の参加となりそうだ。
侯爵という立場上、セルゲイは国王に逆らえず、一方的に国王の不満を聞く形となるだろう。
そのうえ、レイティスは国王からの求婚を蹴ってセルゲイと結婚した。今日はどんな愚痴を言われるか、今から考えただけでもセルゲイの胃はキリキリと痛みを訴えている。
「ねえ、マーガレット。僕たちはもう婚約したのだし、僕のことは『ゼフ』と気軽に呼んでほしいな」
ゼファーは愛しそうに微笑んでマーガレットの手を握ったまま、耳元で呟いた。
しかし、そんな囁きはマーガレットの右耳から左耳へと空しく抜けていく。
ゼファーのことをシャルロッテの兄くらいにしか思っていないマーガレットは、「八歳も年上の人をいきなりゼフってハードルが高すぎる」と冷静に分析していた。
それにそろそろ手を離してくれないかしら……い、痛い。
マーガレットはどうにかして固く握られたゼファーの手を離そうと、手をくねらせたり引っぱったりしてみるが、笑顔のゼファーは逃がさんとばかりにマーガレットの中指と薬指を握って絶対に離さない。
その頑とした行動にマーガレットのゼファーへの好感度は降下の助走を始めたが、マーガレットはぐっとこらえて丁重に断ることにした。
「そんな恐れ多いですわ。殿下のことを愛称で呼ぶなんて」
「アヴェルのことはアヴィと呼ぶのに、婚約者の僕のことはゼフと呼んでくれないのかい?」
ゼファーは穏やか笑みを浮かべていたが、その紫色の瞳からは不気味な圧を感じ、マーガレットは背筋が冷たくなるのを感じた。
動揺しながらもマーガレットは声を紡ぐ。
「え、えーと……アヴ、アヴェル殿下は小さい頃からそう呼んでいたので、改まって呼ぶほうがこそばゆくて照れてしまいます」
「ふーん、そうなんだ。君を『他の男』でドキドキさせるわけにはいかないな……わかった。アヴェルのことはアヴィと呼ぶことを許そう。ならせめて、その『殿下』というのはやめてくれないか? 他人っぽくて嫌いだ」
ほ、他の男って! 自分の弟じゃないの!
……あれ、ゼファー殿下ってこんな自分勝手な感じだったっけ。
もっと大人っぽくて器の大きいお兄さんってイメージだったけど、今までとすると何か印象が違うような……いたっ。
握られていた手がさらに絞めつけられ、痛みを感じたマーガレットは返事待ちのゼファーの無言の圧に、観念せざるを得なかった。
「……わかりました。それではゼファー様」
「ああっ! いいね。聞き飽きた呼ばれ方も君から呼ばれると不思議と新鮮でくすぐったい。これが人を愛するということなのかな」
「……そろそろ謁見の間へと移動いたしましょう、ゼファー様」
「ああ、そうだねマーガレット」
どうにか話を逸らしたマーガレットは、得も知れぬ心のざわめきに襲われていた。
何だろう。
さっきからゼファー殿下に何か言われるたびに、ゾッとするこの感覚は。
私の中の何かがダメだって、恐いって危険信号を出している。
謁見の間までおよそ五分もかからない道のりなのだが、マーガレットにとっては遠い前世に思いを馳せるくらいに、その時間は何百倍にも長く感じた。
結局、謁見の間へと移動し別れるまで、ゼファーは手を離してはくれなかった。
握られていた手は真っ赤になり、痛みに顔をしかめたマーガレットは思いがけないこの婚約に一抹の不安を覚えるのだった。