第9話 主と従者
予期せぬイグナシオからの攻撃に、マーガレットは反射的に両手を前に出して防ごうと身構える――すると隣にいたクレイグがマーガレットの上に庇うように覆い被った。
二人は痛みを覚悟して目を瞑る―――
しかし、イグナシオの拳がクレイグに届くことはなかった。
イグナシオの右手は従者のサイラスによって掴まれ、昨日と同じく止められていた。イグナシオは眼光鋭くサイラスを睨みつけた。
「サイラス、離せ」
「イグナシオ様、おやめください」
イグナシオの睨みに怯むこともなく、サイラスは立ち向かった。
サイラスに掴まれたイグナシオの右手はピクリとも動かない。力の分はどうやらサイラスにあるようだ。
力では勝ち目のないイグナシオだが、サイラスとは主従の関係。
今まではイグナシオがいくらでも命令できる立場にあったのだが……
「昨日の旦那様との約束をお忘れになったのですか⁉」
サイラスの一言でイグナシオは昨日の出来事を思い出した。
そう、それは父セルゲイの書斎で従者のサイラスと共に怒られた時のこと――
イグナシオにとって父・セルゲイはよく言えばとても優しく子供想い、悪く言えば口答えすれば許してくれる御しやすい父だった。
しかし、昨日は違った。
それは今までイグナシオの前では見せたことのなかった父の顔。
父は軍事貴族という仕事柄、尋問もすると聞いたことがあったが、こんな優しい父に尋問されても、誰も口を割らないだろうと思っていた。
しかし、昨日のアレはっっっ⁉
思い出しただけでも恐い、恐すぎる。
睨まれただけで身体を少しずつ削がれるような恐ろしい感覚というものを初めて味わったのである。他人を傷付けることをすれば、また父にあの目を向けられてしまうじゃないか。
思い出した身震いからイグナシオの右手の力は抜け、いつの間にか怒る気力も失せていた。
「……はぁ、分かった。もういい、行くぞサイラス」
イグナシオはマーガレットに目もくれず、サイラスを連れて屋敷へと戻っていった。
マーガレットとクレイグはイグナシオたちの後ろ姿をしばらく見ていたが、マーガレットにはひとつ分からないことがあった。
「お兄様ったら、どうして急に怒り出したのかしら?」
「それはお嬢様の描いた絵が………え、もしかしてイグナシオ様が何と書いたのか読めていなかったんですか?」
「ええ、さっぱり。これ、何て書いてあるの?」
イグナシオの書いた文字を指差しながら、マーガレットは首を傾げる。
クレイグは答えづらそうな顔をしたが、やがて。
「……『マーガレットは口先だけの二枚舌』と書いてあるんです。それに対してあの絵で返されたので、てっきり読めているのかと思いました」
「なるほど、この絵は舌を出しているものね。それでお兄様は、私が字を読んで馬鹿にしたと思って打とうとしたんだ」
「はい、おそらくは」
ふーん、そういう偶然ってあるのね。
仮にも兄と妹のシンパシーか何かかしら。
「これはお兄様にまた馬鹿にされないうちに、早く字を覚えなきゃだわ。クレイグもさっきは助けてくれてありがとう」
「いえ、イグナシオ様の従者の方が止めてくれましたし僕は何も……すみません」
「そんなことないわ。お兄様が私を打とうとした時に、身を挺して庇ってくれたじゃない。まだ会って間もない私のことを守ってくれて、とっても嬉しかった。それにね、自分に味方がいるだけですっごく心強かったのよ。おかげで落書きする余裕があったのだし、あなたが私の従者になってくれて本当によかった」
「っ⁉ はい、こちらこそ。身寄りのない僕を受け入れてくださってありがとうございます」
自然と頬が緩んだクレイグは少し照れた表情を浮かべている。
クレイグって無表情で何考えてるか分からなかったけど、笑うととっても可愛いのね。私みたいな悪役令嬢の従者になったのにこんなに喜んでくれるクレイグのことは、イグナシオに昨日言ったとおりやっぱり大切にしなくっちゃ。
「あ、そうだわ。さっきのお勉強の続き! 今度は私の部屋でクレイグの綴りを教えて」
「え、僕の名前ですか」
「そう、ついでにお屋敷の中も案内するわね、行きましょ」
「あ、お嬢様っ」
マーガレットはクレイグの手を握ると、クレイグを引っ張るように軽快に庭園を駆けだした。それはまるで、これからはじまる運命への助走のようだった。
★☆★☆★
その日の夜。使用人棟。
クレイグの自室にて。
従者として初めての一日を終えたクレイグは、マーガレットから早めの休みをもらって自室へと帰り、ベッドで横になって今日の出来事を振り返っていた。
昨日、仕える主がイグナシオ様から妹のマーガレット様に変更になったと聞いた時は、どんな方なのかと身構えてしまったが、そんな不安は必要なかった。
マーガレットお嬢様は従者である格下の僕に対しても、敬意の挨拶であるカーテシーで迎えてくださった。その花のように可愛らしい笑顔と挨拶を思い出すと、自然と口元が緩んでしまう。
それにお嬢様もいろいろと大変みたいだ。
兄のイグナシオ様とはあまり仲が良くないみたいだし、読み書きができないことを気にしているようだ――――どうにか僕が守ってさしあげたい。
ふと、むかし母様が聞かせてくれたお姫様を守る騎士の物語を思い出した。
その物語を聞いて騎士になりたいと思ったことがあったが、僕はお嬢様を守るカッコいい騎士のようになれるだろうか。
右手を天井へと掲げ、お嬢様の輪郭をなぞる。
いや、なれるかじゃない。
なって僕を拾ってくれた旦那様とお嬢様に恩を返さなきゃ。
そして………
新生活の疲れも相まってか、クレイグの瞼は重く、いつの間にか寝息を立てていた。
お読みいただきありがとうございます。
次の話は――
『恋ラバ』の推しに会いに行こうと思い立ったマーガレットは、黙って屋敷を出て街へと繰り出します。
聖地巡礼に興奮するマーガレットでしたが、まさかの人物と遭遇してしまい……。