第85話 狂った歯車
ゼファーとの会話は、やはり妹のシャルロッテのことが中心となった。
マーガレットに届いたシャルロッテからの招待状が実は『果たし状』で、初対面で決闘を申し込まれたことを話すと、ゼファーは年相応の少年らしく口を開けて大笑いしていた。
それと弟妹のアヴェルやルナリアの前では、シャルロッテはゼファーを大好きなことを隠してお姉さんぶっているが、二人にはとっくにバレていると話すと笑顔で頷いていた。
そしてマーガレットは、シャルロッテが一番楽しそうに話すのはゼファーの話題だと伝える。
「さっきだってシャルロッテは、ゼファー殿下が国王になるのが一番似合うと言っていました」
「はは……シャルはいつも私に王太子になってと言ってくるんだ。私としても大事な妹の願いは叶えてあげたいと思っている…………でも本当は、王太子になんてなりたくないし、王子としての勉強や稽古からも逃げてしまいたい」
それは、口にした張本人のゼファーにとっても、とても予想外の発言だった。
ゼファーが今まで心の奥底に沈めて蓋をしていた、王太子になりたくないという気持ち。その気持ちが浮きをつけたようにフィッと水面へと上昇し、ゼファーの口から出てしまった。
こんなことを言ったらまた幻滅される。
母を失い、悲しみに暮れていたあの頃のように。
反射的にゼファーはマーガレットの顔色を窺った。
マーガレットは翡翠の瞳をまっすぐに見据えて、真剣な眼差しでただ相槌を打っている。
そんなマーガレットの真摯な態度を目にしたゼファーは、蓋をしていた感情が歯止めのきかなくなったダムのようにあふれ出していくのを感じた。
ゼファーは震えるくちびるで、たまっていた悩みを吐露し始める。
「周囲の者たちは、私こそが王太子に相応しいと言ってくれる……だから私も王太子になろうと勉強に勤しんでいた。しかし、その者たちの中から私を殺害しようと暗殺者を送り込んだ者も出てきてね。正直、もう何を信じたらいいのかわからない」
悩みを口にしながらも、ゼファーはもうひとつの頭で考える。
僕は一体、年端もいかない子供に何を話しているんだ。
ましてや妹のシャルロッテにも、側近のミュシャにも、誰にも打ち明けられなかったこんな話を……。
気持ちとは裏腹に、ゼファーの口は止まることなく動き続ける。
「公務は王族の務めだし、この祝賀パーティだって、私のためにと皆が時間を割いて開かれたもの。もてなすのは当然だ。でも、ふと笑顔で応えている自分が、自分であって自分でないような、第三者の目線で見ているようなそんな視点になることがある。その時はとても冷たくって、とても空虚で、わ……僕はとても悲しい気持ちになって、潰れてしまいそうになるんだ」
マーガレットはただ静かに相槌を打っていた。
ゼファーは何度も呼吸を整えながら、話を続ける。
「……先日は母の命日だった。僕がまだ七歳だったあの日。虫の報せなのか嫌な予感がしてね、馬車に乗り込む母に『行かないで』と珍しく懇願したんだ。
すると母は笑って『大丈夫よゼフ。夕方には戻るからシャルロッテと仲良くしていて』と言った。
でも結局、夜になっても次の日になっても母が戻ってくることはなかった。
あの時、母を止められていたらと後悔しない日はないよ……それに最近は記憶も薄れてね。あの日、僕は母に何か大切なことを言われたんだけど、何を言われたのかどうしても思い出せない」
ゼファーの心の叫びの連なりのあとに待っていたのは、静かな沈黙と虫の声。
箱庭の海に見立てた池の水面が静かに揺れている。
それ以外はただ静かに、静かに……。
その沈黙の間、ゼファーは何百何千と感じるほどの冷や汗を繰り返した。
ほら見たことか。
子供にこんなことを言ったって困らせてしまうだけなのに、僕はどうして……。
その沈黙を破ったのは、先ほどから黙り込んでいたマーガレットだった。
「あの、このようなことを言ったら不敬かもしれませんが、どうかお許しくださいゼファー殿下」
「ああ……許そう」
「殿下は王子であり、シャルロッテのお兄様でもありますが、殿下はローゼル学園に入学したばかりの学生でもあります」
「……それが、何だというんだい?」
「えっと、その、何が言いたいかといいますと、ゼファー殿下は王子という責務を十分すぎるほど頑張っています。ですが頑張ってばかりでは、どんな人でも心の潤いは枯渇してしまうものです。ですから時々は年相応の学生に戻って、頑張らない時をつくってはいかがかと……殿下?」
宝石のように美しい紫色の瞳を見開き、口を開けたまま驚嘆の表情で固まっているゼファーに、マーガレットは小首をひねる。
気付いたゼファーは我に返って恥ずかしそうに頬をかいた。
「すまない。頑張っているなんて言われたのは、生まれて初めてでちょっと驚いてしまった。何だかこそばゆいな。ただ理解できないのだが、頑張らない時をつくるとは具体的にはどういうことだい?」
「スポーツをするとか大好きなものを堪能するとか、いろいろあるとは思いますが……私は癒しが一番かと思います」
「癒し?」
「はい、心の癒しです。私はにゃんコフという猫を飼っているのですが、にゃんコフを抱き締めて頭を撫でてあげるととっても気持ちよさそうにして、こっちまで幸せな気持ちになるんです。ですからゼファー殿下も猫を、きゃっ!?」
突然マーガレットの視界は暗闇に包まれ、温かなぬくもりと知らない男の人の香りが広がった。
マーガレットはゼファーに抱き締められ、頭をわしゃわしゃと撫でられていた。
これって、つまり……察したマーガレットは力を込めてゼファーの腕から逃れる。
「私は猫ではありません!」
「いや、すまない。マーガレット嬢の言う癒しをすぐに実践してみたくなってね。でも私には癒しの効果はないようだ。どちらかというと、シャルをあやしているような気分だな」
頭をなでなでされているマーガレット当人もそれには同意するしかない。
そりゃ私みたいな子供じゃ、癒されないでしょう。人間で癒してくれるなら恋人とか、母親とか…………あ!
「殿下。ならば、これはいかがでしょう?」
そう言うと、自信ありげなマーガレットは立ち上がった。
立ち上がったマーガレットは、座っているゼファーよりも大きくなり、先ほどとは逆に、今度はマーガレットがゼファーを優しく抱き締めて頭を撫でる。
これを不敬と言われたら、あとで誠心誠意謝ろう。
こう見えたって、私は二十歳(前世)+八歳(今世)で合わせて二十八歳。
十六歳のゼファー殿下よりは年上だし、精神的には子供がいてもおかしくない年齢だから母親っぽいこともきっとできるはず。
ゼファーの頭を撫でながら、マーガレットは母親らしい言葉を探す。
母親らしい優しい言葉。
ふと、レイティスがいってくれた言葉がマーガレットの頭に浮かんだ。
「ゼファー殿下は、そのままの殿下でいいのですよ」
「っ!?」
マーガレットの拙い言葉を聞いた瞬間、ゼファーの中で幼い頃の記憶が物凄い速さでフラッシュバックする。
九年前のあの日――お母様が馬車の事故で亡くなった日。
馬車に乗る前に、お母様が僕の頭を撫でながら、
「ゼフ、あなたはあなたのままでいいのよ」
と言ってくれた。
すっかり忘れていた。
お母様はずっとそう伝えてくれていたのに、僕は僕は…………お母様。
ゼファーは顔を上げて母の顔を探した。
しかしそこにいるのは、
今ゼファーの頭を撫でているのは――母と同じ翡翠色の瞳を持つ、まだ八歳の女の子だった。
どうしてだろう。
彼女に抱き締められていると、とても安心する。
僕は……マーガレットに縋りたくてたまらない。
感情が高ぶったゼファーはマーガレットを強く抱き締めた。
ぎゅっとすると壊れてしまいそうな細い身体。
そんな小さな身体から、マーガレットの心音がトクントクンと伝わってくる。
マーガレットはゼファーから強く抱き締められて息できないほど苦しかったが、何も言わずにゼファーの頭を撫で続けた。
さっきまでと違って沈黙なんて気にならない。
ああ……いつまでもこうしていたい!
と、ゼファーは切に願った。