第80話 嵐の前のひととき
マーガレットの部屋近くの廊下にやって来たイグナシオは、キョロキョロとあたりを見回すとニヤリと笑う。
「さて、可哀相な愚妹は部屋にいるだろうか」
「イグナシオ様。王家との婚約は可哀相ではなく大変名誉なことですよ」
王家への不敬な物言いに優しいサイラスも流石に忠告したのだが、イグナシオはどこ吹く風である。
「はっ。名誉なのかもしれないが、王族と結婚なんてしたら相手が格上であーだこーだと気を遣って、気が休まるヒマもないだろう。俺はそんな面倒くさいのは嫌だ」
「ちょっと、王家の方々がいらっしゃっているのです。そのようなこと大きな声で言っては」
その時、イグナシオは廊下の角から突然現れた少女にドンッとぶつかった。
ぶつかった拍子に、少女は大事に持っていた可愛らしい女の子の人形を床へと落とす。落とした人形に気を取られた少女は、人形を取ろうと手を伸ばすとバランスを崩して倒れこんだ。
するとイグナシオは、「これは大変」と倒れかけた少女の腰を支えて、少女を支えたまま落ちた人形を拾い上げる。
「……お怪我はないですか、ルナリア様」
「はい、ありがとうございますイグナシオ様。わたくしこそ、よそ見をしてぶつかってしまってすみません」
丁寧に謝罪するルナリアに、イグナシオは「お気になさらず」と貴族らしい上品な外面の笑顔を浮かべながら、ルナリアを支えていた手を離した。
そういえば、第四王女のルナリア様も遊びに来ていたのだった。
イグナシオは人形を返しながら、改めてルナリアを観察した。
鳥のさえずりのような優しげな声、マルガレタ妃に似た柔らかな物腰。
ついこの間までマルガレタ妃に抱っこされてたどたどしく話し、屋敷で迷子になって泣いていたこともあったのに、今では王女の風格さえ感じる。
月日が経つのは早いものだ。
ま、それでもまだ六歳。お人形遊びが好きなお年頃。
……あ゛、さっきの王家の悪口聞かれてなかったよな。
王族と婚約なんて可哀相なんて言ってしまった。
もしルナリア様が母のマルガレタ様に話して、何かの拍子に国王陛下に伝わってしまったら……あれ、もしかして俺、不敬罪? 終わったのでは!?
後悔の念に押しつぶされそうなイグナシオは、まばたきも忘れてそのままカチコチに固まってしまった。
イグナシオの様子にどうしていいかわからないルナリアも、なぜか固まり、見事な石像が二体完成した。
その二人の様子を後ろで見ていたサイラスも「終わった」と思い、天を仰いでいる。
そんな三人の長考状態を変えたのは、ルナリアの帰りが遅いことを心配して部屋から顔を出したマーガレットだった。
「あ、ルナリア……って、イグナシオお兄様? どうかなさったのですか」
マーガレットのひと言で、止まっていた三人の時間が動き出す。
マーガレットは侍女のターニャを引き連れてやって来た。
二人の手にはルナリアと同じような女の子の人形が握られている。
イグナシオの視線に気付いたマーガレットは何かを思い付いた。
「そうだわ。お兄様も一緒にお人形遊びいかがですか?」
――ってお前も一緒に人形遊びしていたのか!?
奥の部屋では、マーガレットのためにプロポーズ会議まで開かれているというのに、相変わらずのんきなものだ。
「愚妹は何を言い出すかわからん」と内心皮肉を言いたかったが、イグナシオは同じ失敗をしない。
ルナリアがいる手前、悪態はつかずに笑顔で華麗に断ることにした。
「いや、お、僕は遠慮しておこうかな~」
「えー、それは残念です。人形たちに設定を付けると面白いんですよ。今はモテモテ設定のお人形に壁ドンして顎クイしてお姫様抱っこして、最終的にハーレムエンドを……あ、人形遊びがお嫌なら、新しい物語を考えたのでそちらを手伝ってくださいな」
「……申し訳ないがマーガレット、僕は」
「あの!」
突然、ルナリアが大きな声を出した。
皆の注目は一気にルナリアに集まる。
「マーガレットお姉様の言うその物語はわたくしも一緒に考えたお話です。お話にでてくる王子様はイグナシオ様に似ているので、その……手伝ってもらえないでしょうか?」
「……はい喜んで」
ローゼンブルク王国第四王女のルナリアに名指しで指名されては、断ることなどできない。
王家のことは嫌いだが、権力には逆らえない従順なイグナシオであった。
★☆★☆★
赤毛の王子(配役:イグナシオ)は、床に倒れこんだ令嬢二人(配役:ルナリア・ターニャ)を見つけ絶句した。
「この二人は、さっき僕と話した……」
「あら殿下、ちょうど良いところに。今ちょうど殿下の周りを飛んでいた羽虫を仕留めたところですの」
後ろから現れたのは、ナイフ(おもちゃ)を手に持った婚約者(配役:マーガレット)だ。
「……たとえ家同士で決められたことといえど、貴女は私の婚約者だ。もとい国のために添い遂げる覚悟であった。しかし、僕がほんの少し笑いかけただけで命を奪うとは……っ!? 貴女に人の心はないのかっっ」
王子は壁をダンッと叩くと婚約者を射るような瞳で睨みつけた。
「もう耐えられない…………貴女との婚約は破棄させてもらうっ!」
突然窓から強風が舞い込み、王子の赤毛をなびかせる。
―――フッ、キマった。
すると部屋中から拍手が巻き起こる。
拍手を送ったのは事切れた女性を演じていたルナリアとターニャだ。
観客のクレイグやサイラスも拍手している。
廊下にも見物客がいたようで、さらに拍手の音が重なっていく。
フッ、廊下のメイドまで呼び止めてしまうとは……俺って演劇の才能があるんじゃないか。これは主役を演じた身としてしっかりと挨拶をしなくてはな。
イグナシオはルナリアたち、サイラスたちと順々に鼻高々に挨拶をしていく。
最後は廊下のメイ……ド?
イグナシオは目を疑った。
廊下で拍手を送っていたのはメイドではなく、プロポーズ会議をしていたはずのアヴェルとマルガレタ、そして何とも言えない表情を浮かべた母レイティスだった。
「お母様、違うんです! これはマーガレットがぁぁぁッッ」
気持ちよく王子を演じていたイグナシオの言葉は、母には届かなかった。
「イグナシオちゃんの演技もすごかったけど、脚本はマーガレットちゃんなの!? すごいわ~」
少女のように目を輝かせたマルガレタは、フランツィスカ兄妹に拍手を送っている。学生以来の親友の誉め言葉を流石に無下にはできないレイティスは、同意はしつつも口を尖らせる。
「すごいはすごいけど……複雑よ。婚約破棄だなんてどこで覚えてくるのかしら、まったく」
それもプロポーズ会議のあとに婚約破棄の話なんて、本っ当に先が思いやられる。必死になってプロポーズの作戦を考えていたアヴェル様の気持ちも考えてほしい。
心底マーガレットにお説教したかったレイティスだが、プロポーズを驚かせたいアヴェルの気持ちも汲んで心の中で思うにとどめた。
当のアヴェルはというと、心配そうな面持ちでマーガレットのもとへと歩いていき、マーガレットのドレスの裾を引っ張って抗議する。
「この前も言ったけど、僕はマーを婚約破棄なんて絶対にしないからね!」
「………………わかってるわよ、アヴィ」
「え! 今の間は何なの、マ―――ッ!?」
と、なぜか信じてくれないマーガレットに、アヴェルは半泣き状態で身の潔白を訴え続けたのだった。