第8話 レッスン
整備された美しい庭園、裏手の馬小屋、石鹸香る洗濯物干し場、忙しそうな調理場と回る場所は限られていたが、六歳の小さな二人には屋敷内を走り回るだけで冒険だった。
この屋敷はフランツィスカ家の王都での住まいで、本邸は王都ローゼンブルクから北西のフランツィスカ領にあり、本邸には公爵のお祖父様が住んでいる。
王都での仕事はいろいろと面倒なので、お祖父様は婿入りしたお父様に仕事を任せて、さっさと私領に引っ込んでしまった。
マーガレットとクレイグは庭園のベンチに腰掛けてひと休み中だ。
クレイグと何かお話ししたいけど両親はいないと言っていたし、あまり突っ込んだことは聞かないほうがよさそうよね。何か話題は……あ、そうだわ。
「ねぇ、クレイグは字が書けるの?」
「え、はい。従者になるためにひと通りのことは勉強したので書けますけど」
「っ⁉ ……あのね、ちょっとだけ私に字の書き方を教えてほしいの」
クレイグは「なぜ?」と不思議そうな表情でこちらを見つめている。
そうよね、侯爵令嬢の私が字を書けないなんて思ってもみないわよね……不勉強でごめんなさい、うう。
マーガレットは俯くと、両手をぐっと握りしめ恥ずかしそうにクレイグに告げた。
「実は私、家庭教師の先生をみんな追い返してしまって、そのぅ」
「……マーガレットお嬢様は文字を書くのが苦手ということですね」
「そうなの! にが、てだったんだけどいろいろあって、私、今すぐにでも読み書きができるようになりたくなって」
「ふむ、分かりました。それでは」
クレイグはベンチから降りて近くに落ちていた小枝を拾うと、地面に字を書き始める。地面には前世の記憶にはない見たことのない文字が並んでいく。マーガレットもベンチから立ってクレイグの隣に駆け寄った。
「お嬢様の名前です」
「これでマーガレット?」
「はい」
「わあぁ……ねぇねぇ、じゃあクレイグってどう書くの?」
「それでしたら」
クレイグが小枝を地面に立てて書こうとすると、突然地面に影ができ暗くなった。
「何してるんだマーガレット」
二人が見上げた先にはマーガレットの兄のイグナシオが仁王立ちしていて、にやにやしながらこちらを見下ろしていた。
うげ⁉ イグナシオ。
なるべく関わり合いになりたくないのにまた現れた。
イグナシオの少し後ろには、従者のサイラスが控えていて申し訳なさそうにこちらに会釈する。イグナシオは冷めた目つきでクレイグを指差した。
「そいつは誰だ?」
「……私の従者になったクレイグです」
「お前に従者だと? フッ、笑わせるなよ。お前に従者なんて、マーガレットのクセに生意気だ」
ムッ、生意気も何もお父様が私にと連れてきてくれたのだけど。
あ、でも本当はイグナシオの従者になるはずだったんだっけ。
兄妹の睨み合いを観察していたクレイグは、マーガレットとイグナシオの微妙な関係を感じ取っていた。そしてこの人物こそが、本来クレイグが仕えるべき人物だったことに心底驚いた。
旦那様とは似ていないんだな。マーガレットお嬢様の方が似ている。
「ん、字? ふはははは。もしかしてお前、字を教えてもらっていたのか……従者から! ぷぷっ、呆れてしまうよ。字もろくに書けないクセに貴族がどうとか昨日はよくも言えたものだ。どれ」
イグナシオは歪んだ笑みを浮かべながら地面にサラサラと字を書き始めた。十一歳のイグナシオはマーガレットと違って字が書けるようだ。
「悔しかったら返してみろ! ほれっ」
と、イグナシオは持っていた枝をマーガレットの足元へと投げた。
何て書いてあるのだろう。
残念ながらイグナシオが書いた字で私が読める箇所は、さっきクレイグが教えてくれた『マーガレット』という字だけ。
それ以外は分からないけど、イグナシオのニヤけ顔からして馬鹿にされているのは間違いない。
隣にいるクレイグが何か伝えようとするが、すぐにイグナシオが止めに入る。
「おい、従者に読ませるのはナシだぞ。貴族らしく『正々堂々』とな」
これは……昨日私がイグナシオを貴族に向かないって言ったことを相当根に持っているわね。
うーん、字が読めない私だけど、このまま何もせずに降参なんてまっぴらごめんだし、う――ん。
唸りながらマーガレットは手に取った枝で、マル(〇)描いてチョン(・)、マル(〇)描いてチョン(・)と目をふたつ(⦿ ⦿)描き、目の下に舌の絵を描いて『あっかんべー』した人間の落書きを描いた。
前世の子供の頃ってこういう落書きをよく描いてたなぁ。
あはは……おふざけはこの辺にして、そろそろちゃんとイグナシオに返さな……
「ッ! お前」
マーガレットの落書きを見たイグナシオは、顔を真っ赤にして怒り狂いながら右手の拳をマーガレットに振り上げた。