第62話 エゴと喪失の狭間
自室に戻ったマーガレットは稽古で疲れた身体を休ませるため、ソファに腰を下ろす。自分だけ座っていることに気が引けたマーガレットは、クレイグとターニャにも座るようにすすめたが―。
「いえ、僕はそろそろお茶の準備をしに厨房にティーセットを取りに行ってきます」
「それなら侍女のあたしが行く。クレイグはここで休んでて」
「あ、ターニャ」
クレイグが止める間もなく、仕事を狙うハイエナ・ターニャは厨房へと駆けて行った。
呆然とするクレイグの背中を見ていたマーガレットはクレイグに話しかける。
「うふふ、ターニャったら張り切っちゃって。全部ひとりでやるような勢いよね」
「……はい、本当に…………そのうち、僕はクビになってしまうかもしれませんね」
「えっ、どうして!?」
「だって僕は男ですから。お嬢様のお召し替えの手伝いをすることはもうできません。ターニャはボーッとしているように見えて仕事を覚えるのは早いですし、お嬢様を守る力だってある。そうなると僕は……」
――必要ないんじゃないか。用済みなんじゃないか。
クレイグは言葉にはしなかったが、マーガレットにもクレイグが言わんとしていることが伝わった。
窓から差し込む陽が陰り、部屋が一気に暗くなる。
悲しそうに微笑むクレイグの顔が、マーガレットにはよりいっそう悲しさに満ちて見えた。
先ほどの廊下でのクレイグの暗い表情の意味を、マーガレットはようやく理解した。
ひじ掛けにひじを置くと、マーガレットは頬杖をついてクレイグを見つめる。
なるほど、そんなことを考えていたのね。
新しい侍女が来たから「はい、サヨナラ」なんて、せっかく仲良くなれたのにするわけないのに……意外と心配性なんだから。
マーガレットはソファから跳ねるように立ち上がると、お気に入りの漆黒の扇子をクレイグに向け、気合のこもった声で言い放った。
「クレイグ! 前にも言ったけどクレイグはもう私の家族なんだから、あなたをクビにするなんてあるわけないでしょ。それにあなた、私のことを守ってくれるっていったじゃない」
「……でも、弱い僕よりも、きっとターニャが強いですし」
マーガレットの説得を受けても、クレイグは視線を落として俯いている。
これは相当重症だわ。
午後の稽古で年下のターニャが互角にやり合ったことで、クレイグのプライドをへし折っちゃたのかしら。
どうすればクレイグはプライドを取り戻すだろう?
んー、ターニャになくてクレイグにあるもの、あるもの……。
「ねえクレイグ。私もだけど、ターニャもちょっと非常識なところがあるでしょ。そういう時に助言したり注意したりしてくれるクレイグのことを、私はとっても頼りにしているの……それにあなたはいつも私のピンチの時に傍にいてくれた。それがどれだけ心の支えになっていたか。だからかしらね……クレイグが自分を責めている姿をみると、私まで悲しくなっちゃうのよ」
「お嬢様……でも、僕なんて」
「もうっ、『僕なんて』って言葉は使わないの!
あなたが自分のことを下げちゃうと主人の私まで悲しい気分になるじゃない。そもそもクレイグとターニャは得意分野が違っているのだから、仕事を振り分けるのも簡単なはずよ。今日だってターニャに髪をしてもらったら、ブラシで梳いてるだけなのにホウキみたいにボサボサになって大変だったし。こうなったら、ターニャが戻ってきたら私がきっちりと仕事の分担をしてあげるわ。
さ、顔を上げて。私の大事な従者さん」
マーガレットは自慢の扇子を大きく振り回して有無を言わせなかった。
不思議だ。
お嬢様の自信に満ちあふれた姿を見ると、僕にも自信がみなぎってくるみたいだ。
「あの、お嬢様」
「ん、なぁに?」
「……僕はお嬢様に『大事』と言ってもらえるほどお役に立てていますか?」
「もちろん! かゆい所に手が届く孫の手くらいになければならない存在よ」
「それはなくてもどうにかなるような……」
「今のは例えが悪かったけど、クレイグっていう一言多い従者が私にとって必要不可欠なのは間違いないから。だからそんなに落ち込まないで、ね?」
『大事』『必要不可欠』
マーガレットにそう言ってもらえるだけで、クレイグの沈んだ心は火が灯ったようにみるみる元気になっていく。
あぁ、よかった。
僕はこれからもマーガレットお嬢様の傍にいていいんだ。
クレイグは口角が上がっていくのをぐっとこらえて、わざと咳き込む。
「コホン、わかりました。それでは早速言わせてもらいますが」
クレイグの低くなった声のトーンで、何かを察知したマーガレットは素っ頓狂な声を出す。
「え゛。な、何? 私何かやったかしら」
「お嬢様は扇子を少々振り回しすぎです。今は誰も近くにいないからいいですが、
人に当たったら大変ですのでお気を付けください」
「あ、はい。気を付けます」
叱っているはずなのに、顔を緩めて安心したクレイグの笑顔は、暗くなった部屋など関係ないほど明るく輝いて見えた。
その後ティーセットを運んできたターニャと話し合い、マーガレットが間に入ってしっかりと仕事の分担を行ったのだった。