第51話 それぞれの物語
――トントントンッ。
レイティスは、息子イグナシオの部屋のドアをノックした。
しかし部屋の中から返事はない。
中にいるはずの息子に声を掛けてから、レイティスはドアを開けて部屋へと入る。
昼間なのにカーテンは閉められていて、部屋の中は薄暗い。
薄暗い中、レイティスは目を凝らして息子イグナシオを探した。
ベッドを見ると、こんもりとコブができたようにシーツが膨らんでいる。
レイティスはベッドにそっと腰掛けて、そのコブを優しく撫でた。
手の感触から頭、首筋、そして背中をゆっくりと撫でていく。
どうやらシーツの中のイグナシオは、体育座りをしているようだ。
レイティスはいつもよりも優しく語りかけた。
「イグナシオがそんな風に感情を昂らせて落ち込むなんて珍しいわね……いいえ、初めて見たかも。あなたはお母様の前ではいつも猫を被っていて、本当のあなたを見せてくれないから心配していたの。子供の頃から取り繕って生きて、大人になっても本当の自分を見つけられずに苦悩する人もいるから……正直なところ、あなたのそんな一面が見られてお母様は嬉しいわ」
そう言って、レイティスはシーツの大きなコブを抱き締めた。
コブはふるふると震えて声を漏らして泣いている。
「いい、イグナシオ。あなたは将来、フランツィスカ公爵となる身です。まだ子供のあなたは公爵になるための準備をしている段階なの。今は公爵となった時に恥じないように、いろいろなことを経験している最中なのです。その経験の中には、別れの経験もあるでしょう」
「お母様もあるのですか?」
「えぇ、あるわ……もっと悲しいこともいっぱいある」
悲しい声のレイティスからイグナシオは直感した。
それはきっと……お母様のお母様、つまりイグナシオにとってのお祖母様のことだろう。
お祖母様は、お母様が十五歳の時に流行り病で亡くなったと聞いたことがある。だから、俺はお祖母様のことを写真の中の笑顔の優しいきれいな人としか知らない。
俺にとっては会ったことのないお話の中の人だけど、お祖母様という人が実在してどんな人だったかはお母様を通して不思議と伝わってくる。
「でもそれが人生だもの。あなたの人生があるように、サイラスにもサイラスの人生がある。サイラスは、ゆくゆくはお父様の建設業を継ぐことになるでしょう。サイラスにもあなたと同じでやることがあるの……だからその時が来たら、悲しいけれどサイラスのために温かく見送りましょう」
諭すような母の言葉に、イグナシオは小さくこくりと頷いた。
――トントンっトン。
誰かがドアをノックした音が鳴り響く。
ノックの主をレイティスが招き入れると、目を真っ赤に腫らしたサイラスがおずおずと入ってきた。
シーツを頭から被ったイグナシオからはサイラスの姿は見えないはずだが、ノックの仕方や足音のクセからサイラスだとわかり、イグナシオの身体は急にこわばる。
気付いたレイティスは勢いよくシーツを引っぺがす。
するとシーツの中には想像通りに体育座りし、サイラスと同じように目を腫らしたイグナシオがバツが悪そうな顔をしてうなだれていた。
少しの沈黙が流れ――
サイラスと目を合わせたイグナシオは、サイラスが妹のことを楽しそうに語っている姿を思い出した。
俺にとってサイラスはとても大切な従者だ。
でも本当にサイラスのことを思うなら、実家のあるフランツィスカ領に帰らせるのが幸せなんじゃないのか。
そうすれば、サイラスは家族のもとにいられるのだし……うん、やっぱりそうだよな。
イグナシオは赤く腫れた目を細くしてサイラスに微笑んだ。
「さっきはすまなかった。急なことだったので取り乱してしまったようだ。だがもう大丈夫。俺はいつか公爵となる男だ。お前がいなくても服は着替えられるし、靴だって履いてみせるさ」
「……」
「剣の稽古相手がいなくなるのは辛いが、まあ……あいつらが強くなるのを期待しよう。お前は何も心配しないで帰るといい」
「…………」
「おい、何とか言ったらどうだサイラス。俺がせっかく見送る決意をしたというのに、何でさっきから黙って」
「ち、ちち違うんですっ。そうじゃないんです」
「………ん?」
イグナシオは首を傾げて、母レイティスを見る。
気付いたレイティスは引きつった笑みを浮かべて、「おほほ~ごめんなさい」と謝りながらそそくさと部屋を出て行ってしまった。
―何だ、どういうことだ!?
説明を求めたイグナシオがサイラスを見ると、ふぅっと息を吐いて呼吸を整えたサイラスが口を開いた。
「確かに僕はイグナシオ様の従者を辞めて、家業の勉強を始める予定でした。でも数日前に両親に相談して、ローゼル学園を卒業する十八歳まではイグナシオ様の従者としていられることになったんです!」
「………………はぁぁぁぁぁっ!? じゃあ、お母様たちが話していたのは」
「七年後の話なんです」
「………」
な、何てことだ。
じゃあ俺は七年後にサイラスが従者を辞めることを今と勘違いして、俺には報告はないのかと腹を立てて喚いていたのか……は、恥ずかしすぎるっっ!
いや、恥ずかしさを通り越して笑えてきた。
「ふっふふふ」
「えっ、イグナシオ様大丈夫ですか!? まさか、おかしくなられたんじゃ」
「おいおい、そんな風に主を馬鹿にするんじゃ……いや、サイラスならまぁいいか、ふふ。それにしても、まさか七年後のことだとはな。そういえばお母様はマーガレットの結婚も、まだ婚約もしていないのにもうすぐみたいに話す人だ。すっかり騙されてしまった、ははは……でも、それならよかった。だってサイラスがいなくなるのは、あまりに淋しすぎる」
満面の笑みを浮かべたイグナシオが言い放った言葉を聞いた瞬間、サイラスの心は星が瞬いたように明るく輝いたような気がした。
そして、サイラスは数日前の夜のことを思い出した―――。